母は81歳
大病もせず
腰も曲がらず
『具合悪い』と度々言いながらも
元気で居てくれることには
いつも感謝でした。
そんな母が
意識を失い倒れる
短時間で意識は戻り
普通にしている
なんてことが以前から有り
その場に父や家族が居合わせないこともあったりで
何となく…監視では無いのですが
時間が空くと実家へ行く機会を増やしていました。
両親とお茶を飲みながら
テレビを見ていると
元々お喋り好きな母は
一人で話し続けます(笑)
いつもはテレビの話や近所の方の話などが多いけれど
その日は長々と昔話を始めました。
母の実家は福島県須賀川市。
子供の頃は毎年夏休みには家族で行き
祖父母や従兄弟と過ごし
全く拓けることのないド田舎
広大な田んぼや
竹林や
小さな小川にはメダカが泳いでいたり
鬱蒼とした森林の中にお墓があったり…
周りにはお店の一つも無く
『町』に行かないと買い物も出来ない(^^;)
今は建て直していますが
私が知る母の実家は
玄関を入ると
靴のまま台所やお風呂に行き
土間って言うのでしょうか?(*_*)
お風呂は五ェ門風呂!
祖父とゴミや木を燃やして焚くのが楽しくて。
靴を脱いで部屋に上がり
そこにはたくさんの遺影が並んでいて
子供の私は知らない人たちのお顔ですが
私の曾祖父や曾祖母
若くして亡くなった伯父など
並んでいる中でも
毎年私が引き込まれるように見つめていたのが
曾祖母の遺影。
なぜかは幼い私にはわかりませんでしたが
行く度に曾祖母の笑顔を見つめていました。
今になり、故人と繋がり通訳をする
ミディアムリーディングをするようになった私。
故人のフルネームがわかった状態でしているので
その曾祖母の名前を知りたいと思いつつ
母には何となく聞けずにいました。
そして
母が語り始めた昔話。
母はそんな田舎暮らしでありながら
高校にも行き
テニスなどもしていたのは写真を見て知っていましたが
曾祖父は蔵にある
時代劇のような格好をして
町に遊びに行ったりして
家のことは放ったらかし。
その分、曾祖母は
ほぼ自給自足で
町に豆腐を売りに行くけれど
お金ではなく大豆と交換して来る。
そしてまた豆腐を作る。
↑
それって何か変?(笑)(笑)
お米も味噌も
何でも家で作るけれど
文明の利器は皆無なド田舎の昔の暮らしは
おかずや調味料も独特なやり方で作っていたそう。
↑
聞いたけど理解出来ず(^^;)
数軒の家が固まっていたけれど
ある日、放火されて
その時も家が燃えてしまっても
何とか運び出したもので
生活は続き
子だくさんの大家族
服が無ければ、ある物を縫い直し
曾祖母がとにかくしっかりやっていたそう。
その数軒の中で
年頃の良い者同士が結婚していたけれど
母はなぜかお見合いで父と結婚。
20歳で神奈川に住む父に嫁いだ母は
それまでの生活がそのような生活だったので
『スーパーに行っても何を買ったらいいかわからなかった』
(;´∀`)
今の私には想像もつかない
ド田舎の暮らし
でもなぜか
曾祖父母、祖父母、母や母の姉兄達の暮らしが
母の話と共に映画を見ているようにビジョンが浮かんでいました。
そして
そこでようやく
母の口から
『ツネさん』
曾祖母の名前が!!
やっと名前がわかった!
曾祖父の名前も言っていましたが
忘れました(笑)
母の実家の方は戦争中に疎開する子供などは来ていなかったと聞き
私が相槌を打っている間も母は一人話し続け
父は戦争中は外務省に勤務していた祖父の関係なのか中国に居たらしく
父を前にして
お父さん(父)は戦争中の話は絶対しない
よっぽど帰国してから嫌な目に遭ったんだろうね
こんな話をされても
父は知らん顔して無言(苦笑)
見慣れたやりとりです。
ただ、ここで祖母が覚えて来た本場の餃子の作り方は
母に伝わり
私も受け継ぎ
友達からも好評です(*^^*)
先日も
母は出先で意識を失ったらしく
意識が戻っても起き上がれず
スマホで父に電話をしようとしても
ワンタッチで出るはずが
番号が出ない
何とか階段に座り
落ち着いてから帰宅したらしいのですが…
身体の右半身が
肩から腕から脚から
見事にアザだらけ!Σ( ̄□ ̄;)
家族には意味不明に文句をぶつけ
父には嫁に来た頃からの文句まで言い始め(;´∀`)
医療の知識のある我が家の次男が来て
血圧を計ったり
痛むと言う首の治療をしていたら
先ほどまでとは別人のように嬉しそうにニコニコしてるし(*´-`*)ゞ
それでも
こんなことがこの先も続いても困るので
強制的に母の大規模検査を行い
只今結果待ち。
母の体調不良もチャネリングで情報を得ながら
『ツネさん』の名前もわかったので
ツネさんに繋がれる(*^^*)
その内容は
次のブログで゚+.゚(*´∀`)b゚+.゚