スティーヴン・ソダーバーグの、革命家チェ・ゲバラを描いた「CHE」(チェ)を観て、映画を観た人と会話を交わす機会があった。そこで、あらためてこの映画の事を考える機会を得た。
チェ・ゲバラは革命のシンボルであったが、実はボクラはあまりよくチェの事を知らないでいた。
キューバ革命を成功に導いた事や、とてもカッコいい男だなあーと写真で知れる印象は強烈にあった。
しかし、彼がどう生き、どう死んでいったかを詳しく知ってた訳ではない。
この二部に分けられて公開された映画では、それでは彼がどう生きて、どう死んでいったかが詳しく描かれているか?と問うと甚だ心もとない。(今月末に公開される第二部をボクはまだ観ていない。)
何故なら映画ドラマとして描かれる定石の説明部分が、実はそぎ落とされている。
映画には、チェの28歳の行動の断片が描写されている。
そのモザイクのエピソードは、革命の成就と成就後の1964年の外遊(NY)をパラレルに移動しつつ、積み重なっていく。
チェの行動を描くことだけで、チェの何かに肉薄したいとするソダーバーグの執念を感じた。
あるいは行動するチェを見続けたいという欲望が、ソダーバーグを支配しているのだろうか。
彼と彼を取り巻く風景を切取ることに対するオブセッションは静かに持続していて、キャメラ・アイの存在を滅却させようとするかのようだ。
RED ONEの撮影も、この「見続けたい」欲望を、どんな密林であろうと小屋の中であろうと叶えるための手段に思えるのだ。
おそらくソダーバーグは、如何にチェは生き、そして死んでいったかを見届けたかったに違いない。
等身大のチェの28歳と36歳を見ることで、チェという存在の実存に迫りたいというのが、ソダーバーグの創造原理ではなかろうか?
ソダーバーグが「ソラリス」で控えめに試みた生と死の相克が、チェと役者デル・トロを得て深く探求されている。
しかし映画の表層は、淡々と装っている・・・。