「おかげさまで、もう痛くなくなりました。ありがとうございました」
そう言って来院が途絶える患者さんが、実はいちばん多いパターンです。治療家としては嬉しい報告なんですが、同時にちょっと複雑な気持ちにもなります。「治ったから、もう鍼灸は必要ない」という発想そのものに、実はもったいない誤解が隠れているからです。
これは腰痛や肩こりのような「痛み」で来られる方に限った話ではありません。花粉症やアトピーのようなアレルギー体質を整えたくて来られる方、胃腸の調子や自律神経の乱れといった内臓由来の不調で来られる方もたくさんいらっしゃいます。症状の種類は違っても、根っこにある考え方は同じです。
鍼灸が狙っているのは「結果」ではない
鍼灸は、症状という「結果」だけを狙い撃ちしているわけではありません。狙っているのは、身体が本来持っている調整する力そのものです。腰痛が消えた、アレルギー症状が落ち着いた、胃の調子が整った、というのはその力が働いた「結果の一つ」であって、ゴールではありません。
身体を整えた状態をキープできれば、次に同じ負荷(花粉の時期、季節の変わり目、ストレスの多い時期)がかかったときにも崩れにくくなります。逆に言えば、症状が落ち着いた時点でやめてしまうと、せっかく整った状態を維持する手段を自分から手放してしまうことになります。
これは車のメンテナンスに近い感覚だと思っています。エンジンから異音がして初めて修理工場に駆け込む人もいれば、何も問題がなくても半年ごとにオイル交換や点検に出す人もいます。後者のほうが結局は大きな故障が少なく、長く乗れて、トータルで見たときの出費も抑えられることが多いものです。歯医者さんも同じ発想で、痛くなってから通うより、痛くなる前の定期検診のほうが結果的に歯を長持ちさせます。鍼灸も本来、この「定期点検」側の使い方をしたほうが真価を発揮する施術です。
健康は「取り戻す」から「積み立てる」へ
とはいえ、人間は正直な生き物で、調子がいい時に健康のことなんてほとんど考えません。喉元過ぎれば熱さを忘れる、というやつです。これは意志が弱いとかそういう話ではなく、人間の自然な性質だと思っています。わかりやすい症状というアラームが鳴らない限り、わざわざ時間とお金を使って体のメンテナンスをしよう、とはなかなか思えないものです。
ただ最近、この感覚が少しずつ変わってきているようにも感じます。ジムに通って体を鍛える、質の良い食材を選んで食べる、サプリメントで栄養を補う、睡眠の質を測るアプリを使う——こうした「健康に積極的に投資する」という考え方が、以前よりずっと身近になってきました。健康は「悪くなってから取り戻すもの」ではなく「普段から積み立てていくもの」という認識が、特にここ数年で広がってきている感覚があります。
鍼灸も、本来はこのリストの中に入っていい選択肢だと思っています。ジムで筋肉を鍛えるように、鍼灸で自律神経や内臓の働きを整える。良い食材を選ぶように、月に一度、自分の身体の状態を専門家に診てもらう。痛みであれ、体質であれ、内臓の不調であれ、大きく崩れていなくても、「最近ちょっと疲れが抜けにくいな」「花粉の時期が近いな」くらいの段階で体を整えておくと、崩れたときの落差も、立て直すのにかかる期間も、だいぶ違ってきます。
実際、定期的に通ってくださっている患者さんほど、体調を崩したときの戻りが早い傾向があります。普段から土台が整っているので、ちょっと崩れても元の状態まで戻る距離が短いんだと思います。逆に、症状が出てから駆け込んでくる方は、土台そのものから作り直す必要があるので、どうしても時間がかかります。
まとめると
痛みが治ったら卒業、体質が落ち着いたら卒業、ではなく、そこから、本当の意味での「予防」としての鍼灸が始まります。月に一度でも、季節の変わり目のタイミングでも構いません。定期的に自分の身体に投資しておくこと。これは、将来の自分への、いちばん効率のいい先行投資だと思っています。