御厨河岸の札差・野口屋平治郎の一人娘の蓮には、町内でのあざながある。
跳ね返りやおちゃっぴい、げんのしょうこやら御輿草娘(みこしぐさむすめ)とも、陰では呼ばれている。

 げんのしょうこは薬草で、腹下しなどには速い薬効があるところから、現の証拠とも呼ばれたのだが、実が弾けて花弁が外に巻き、御輿の屋根のようだから御輿草とも呼ばれる。

 お蓮は小さい時からお転婆な元気な娘で、母親は幼い時に病で亡くなったが、父の平治郎はその分可愛がって溺愛していた。

 近所の悪童も泣かせる上に口も悪く、奉公人や客までずっぱり悪態を吐くから、側にいる者ははらはらする。けれどそれが言いえて妙なので、思わずくすりと笑ってもしまうのだ。

 平治郎は、四十には間がある男盛りだったから、札差組合の世話で後添えを貰った。後添えのおしずは同業の上総屋の、いかず後家と云われた妹で長唄の師匠をしていた。

 ふん、ちまちました顔の姐さんだこと。お連は父の平治郎とおしずの婚礼を眺めて呟いたが。特別苛められる事も可愛がられる事も無く、おしずとは不可侵の堺を探り合って落ち着いた。

 札差商いは、客は殆ど武家方だが、扶持米を金に換えるだけでなく、来年再来年の扶持をかたに、金を借りに来る者が多く、証文貸や株の売り買いと金貸しのような仕事も多い。
 
 だから時には揉め事もあり、用心棒を雇い入れてるお店(たな)もある。野口屋はあこぎでもなく手堅いお店で信用もあったが、ある午後、御家人の男が無理難題を言って刀を抜いた事件があって。口入屋の相模屋から用心棒を雇うことにあいなった。

 そうしてやって来たのが御家人の岡部惣一郎。惣一郎は尾関道場で皆伝の腕だというが、見た目は痩せてひょろりと手足が長く、ぼんやりりした顔立ち。実際に惣一郎の仕事はそれ程無く、店の帳場の裏部屋で茶を飲んで、昼寝してるだけのようなものだった。ある昼下がりの八つ時。

 おまえ、ひまそうだなぁ。それで飯が喰えるとはいいご身分だ。
お蓮は、唐紙をガラっと開けて無遠慮に言った。

 おやおやっ、お嬢様ですな。拙者もありがたく思っておりますが、これで中々暮らしは難儀でござります。お嬢様こそ、べんしゃら高価なお召し物で、そうやって奉公人や隣近所に悪態ついていられるとは、なんとも羨ましいご身分で。

 惣一郎はゆっくり起き上がると、お蓮を見上げて言った。

 ふん、お前に何が判る。本音を言わずにいじいじして、人の顔色や浮世の様子におどおどしてる奴が嫌いなんだよっ。

 これはこれは、さすがにげんのしょうこ様ですな。惣一郎は可笑しそうに笑った。

 お前、あたしはこれから神田の明神様にお参りいくんだ。用心棒として供をしておくれ。

 雇い主は野口屋の主(あるじ)殿故、ご許可があればいかようにも。

 おとっつぁんは、あたしの言う事なら聞くよっ。だから黙って供をするんだよっ。

 岡部さん、どうぞよろしく御願い申しますよっ。
平治郎は頭を下げて丁稚番頭と共に、出かけるお蓮と惣一郎を見送った。煩い娘が出かけてくれるのは一同ほっとしてる気配も伺える。

 他に供はいらないとお蓮は言い張って、惣一郎と通り町の賑やかな道筋を歩んでいった。

 お前は幾つになる。

 二十と一になりまする。

 そうか家族もいるのか妻とか。

 母と四人の弟妹がおります。お嬢様は兄弟がいなくてお淋しいのお。

 そんなもんいらんわ。ぴいぴいする餓鬼は好きじゃない。鬱陶しいこと言う兄姉もいらんわ。そうろく、あのなっ。

 拙者は惣一郎と申しますが。

 あたしが惣六と呼んだら、おまえは惣六なんだよっ。あたしに縁談があるのを知ってるかぃ。

 お店の方がそんな事を話していましたな。喜ばしい事ではござりませんか。

 何が喜ばしいだよっ。おとっつぁんとおしずに子が出来ねぇから、あたしに婿を迎えようって腹づもりさ。そういえば何だか腹が減った、お前は何が好きだ。

 腹はそろそろ減りましたなぁ、拙者日頃は、腹六分目で粗食を良く噛んでの家訓ですが。こういう機会も滅多に無き事で、鰻の蒲焼とか、いやちょっと張り込みすぎましたかな。

 惣一郎は、少し恥ずかしげに首に手をやった。

 そうか、蒲焼なら翁町のうな政がいいだろう。こっちじゃ、付いて参れ惣六。

 神田川の川端のうな政は、この辺りでは評判の店で、一げんはとらない格式だが、札差野口屋は得意客の接客に使っているお得意さまだ。



 柳の風に紺の暖簾も涼しげに、店先には香ばしい匂いが流れている。二階の小座敷に上がると、鰻が焼けるまで所在も無い、酒と突き出しをと。お蓮は手馴れた年増のように小女に頼んだ。

 お嬢様はさすがに馴れたものですなぁ。我が家は貧しくて、弟妹は鰻など生まれてから見た事もありませぬ。
惣一郎は刀を刀賭けに預けて胡坐をかいた。

 お譲様はやめろっ。お蓮でいい。ほんとは跳ねっ返りと呼びたいんだろうが。

 ははっ、お蓮さんはそういう所が可愛いですのぉ。

 可愛いってぇ、馬鹿にしちゃいけねぇよっ。わっちはね、おっかさんがわっちを産んで亡くなったって聞いても、じゃ産まなきゃよかったのにって思う娘さ。

 お蓮さんはお幾つにおなりか。

 十七になった、鬱陶しい年頃だよ。おとっつぁんは同業の近江屋の三男坊を婿にって、あんなひょうろくだぁはまともに札差は継げねぇさ。

 ほむっ、婿殿はひょうろく玉なんでござるか。

 あいなっ、十九にもなって往来で絡まれても、啖呵も切れねぇひょうろく玉よっ。

 ははっ、ちゃんと陰から確かめなさったのか。

 当たりきしゃりきだぁな。てめぇの婿の顔も見ぬで黙ってもらえるもんか。

 そこに酒と胡瓜と鰻皮の和え物が運ばれてきて、お蓮は銚子を取り上げて酒を注いだ。

 まだ前髪にぼんぼん簪で、ひわ色の友禅に鹿の子の帯、あどけないような小さな唇からは悪態が零れるが、その瞳はどことなく淋しげな色だ。

 惣一郎は不思議な色の珠を見るように、お蓮を眺めた。獏蓮女でも脂ぎった年増でもなく、たおやで無垢な姫御でもない。

 盃を口に運びながら、町場の娘とは彩りがあるものだなぁと思った。惣一郎が知ってる女とは、貧乏御家人の妻を努めた我慢強い母であり、ごくたまに、稼いだ口入稼業の金で買う夜鷹でしか無い。

 それでもお蓮さんは、何時かは婿を取って野口屋を継ぐ。そういうのを定めと言うのでしょう。

 おまえはどうなるんだっ。

 拙者ですかぁ。多分、口入屋の仕事をこなして、辛うじて母や弟妹を養い役目を果たす。そうして骸になるまで生きるのでしょう。

 お蓮は手酌で盃を口に運んだ。そうしてふいと泪を浮かべた。

 おまえはそれでいいのか。惣六はそれで満足するのか。わっちはいやだ。人のいうなりの一生も、さだめなど蹴飛ばしてやりたいのだよっ。お蓮は潤んだ目のままに惣一郎を見た。

 惣一郎はちょっと胸を突かれた。おかしな娘なのに、妙にいぢらしいようで、思わずまじまじと見つめた。

 お蓮は眉根にしわを寄せて気難しい面立ちになりながら、少し身を引いて思い切ったように目を上げて。

 そうだ惣六、おまえわっちの婿になれっ。わっちは思うようにはならん、それでいいなら婿になれっ。

 惣一郎は思わず仰け反りながら。とんでもないおちゃっぴいよの、と思いつつ。
 お蓮さんはなかなか手強い相手だなぁ、真剣勝負なら挑まれて引くは武士の恥でござるゆえ。受けて立とうと申したいがの。

 お待たせしましたぁ。小女が間延びした声で障子を開けた。
 気が利かぬやつだわ、半時たってから焼き直してお持ち。お蓮はそうぴやりと言って小女を追い払う。

 どうじゃ、喰いっぱぐれることもないし、うちのおとっつぁんも喜ぶ、そなたの家にも不自由はかけぬぞ。鰻など毎日と届けさせるぞ。わっちはおまけじゃ。どうじゃどうしゃ。

 やれやれ、先の思い遣られる女房殿だなぁと、惣一郎は思いつつも、まぁ退屈はしなさそうな気風の娘にちょっとばかり心が揺れたのだ。続く。


※政治や社会の事を書くとどっと疲労するんで、息抜きに昔の江戸物に手を入れて再掲。冷えた麦湯でも飲みながら愉しんでいただけたら幸い也。