黄昏時の賑わう永代橋をすぎて、両国外れの相模屋までおきわは佐吉を送って行った。

重く曇った空に七つの鐘が鳴るまで、ぐずぐずと身の回りの物を畳んだり包んだり、時を引き伸ばすように過ごして、二人で長屋を出た。

何も知らぬ長屋の女達が、仲良くお出かけかぃと冷やかすのに笑顔で答えて

近くの天神社にお参りしたり寄り道しつつ、ひょろりと上背のある佐吉に、小柄なおきわは寄り添って歩いた。

途中佐吉が、蒸し返すようにおきわに言いかけるのをおきわは遮って

あたしも江戸を離れて、下総の兄さんのとこに行くのが楽しみだわと明るく笑うのだ。

佐吉に迎えが来たのは三月前。

どこで調べ上げたものか、両国端の鰯下問屋相模屋の老番頭が、丁稚を伴ってひっそり尋ねて来た。

佐吉は深川の裏路地で酔って蹲ってる所を、地元の悪奴に蹴られて懐まで取られ、怪我をしてるのを、おきわに助けられた。

おきわは千住の飯盛女郎あがりで、年季開けに深川に流れてきて、新川町の一膳飯屋の女中をしている、三十路も近い女だった。

佐吉を長屋に連れ帰ってから二年近く。

佐吉は博打も深酒も控えて、長屋の差配の世話で、盤台担ぎの乾物売りとして、働きに出て暮らした。

自分の事を佐吉は、博打と遊びの度が過ぎて放り出された半端者さぁとしか、おきわに話さなかった。

おきわもそれ以上の詮索をしなかった。

飯盛り女郎上がりの自分が、まがりなりにも堅気のお店者風の男と、夫婦まがいに暮らせるのが嬉しくてたまらない。

年も下で気の弱いひょろりとした佐吉が、足取りもおぼつかなく盤台を担いで出かけるのを、まつわり付くように世話をするのが喜びだった。

長屋の人達も始めは、
弟みたいな若い男を引き込んだと噂もしたが、佐吉の優しい丁寧な挨拶や

おきわが佐吉の爪を切ってやったり、髪のほつれを直してやったりと、いじらしいほど世話をするのを見れば

人には色んな昔もあるよぉ、佐吉さんはいい人さぁと、気の強い姉さん女房と、気弱い年下の亭主と、
からかってもそれ以上陰口もきかず、良くしてくれる。

飯屋に働きに出るときは毎日、近くの天神様に、今のささやかな幸せが、どうぞ続きますようにと願いをしていたのに・・

番頭は、慇懃に相模屋へ戻るようにと伝えに来た。

相模屋は相模の海産品や昆布・鰹節等を商う問屋で、両国端では大店であった。

先代が亡くなると、後妻のおもとが取り仕切り、自分の腹を痛めた次男の松蔵を可愛がる。

奉公人の前でも佐吉を面罵して、佐吉は荒れて家を開ける日も増えていった。

けれど弟の松蔵は兄想いで、家を出た佐吉の様子を気遣い、密かに捜していたのだ。

実の弟のように優しく、何時も一緒に遊んでくれた兄さんだ。母親の気持ちは嬉しくとも、兄が辛い思いをしているのが心苦しい。

おもとが亡くなると、松蔵は長男である兄に相模屋を継いで欲しいと思い決めて、番頭を使いに出したのだ。

おまいさんが相模屋さんの跡取りとは、思っても見なかったよっ、良かったねぇ。
おきわは泣いて喜んだ。

自分の役目はもう終わった・・

この人を相模屋に送る事が、最後のおつとめだ。
きわは決心するとそう覚悟を決めた。

幸せな思い出の残る長屋も出て行こう。下総の兄さんなんかいやしない。

それでも嘘をつかきゃ、佐吉の実家に戻る気持ちが鈍る。

道の向うに、相模屋の商い行灯が遠くに見えてくる。手代が外に出て、佐吉を迎えようと辺りを見回している。

それじゃ佐吉つぁん、気張って商いに励みなさいよっ。
蓮っ葉に言い捨てておきわは横を向く。

佐吉はそれでも、心細げにおきわの袖を掴んだ。

おきわ・・俺ぁ身代が欲しいんじゃねぇよっ、お前のことは何とかするつもりだ。ただ、弟の気持ちに応えたいと思って・・

まったくあんたはぐずだよねっ、
呆れ返るぐずだぁね。
目の前に堅気の大店が転がってるっていうのにさ。あたしも面倒くさい男がいなくなって、せいせいなのさぁ。

ほらっ、風呂敷に仕立て直しの着物も入ってるさっさと持って向こうで生きておいきっ。

盤台担ぎなんか、お前に勤まるもんじゃねぇのさ。
おきわは侮るように吐き捨てた。

佐吉は背中を叩かれて、
うな垂れながら相模屋の方へ、とぼとぼと歩んでいった。

するりと背を向けて離れながら、
おきわの頬にはほろり涙が零れた。

馬鹿野郎だよっ、お店に戻って釣り合うお店から嫁を貰って、弟さんと商いを広めるのがあんたの勤めだ。

あたしは勤めを果たしたんだから、今度はあんたが自分の勤めを果たすんだ。

自分に言い聞かせるように呟いても、
涙がまたほろりと零れる・・

一膳飯屋の残り物を持ち帰っても、佐吉は嬉しげに向かい合う膳を喜んでくれた。

明け方に問屋に出かける佐吉の身支度や、盤台の世話をやくのは、どんなに眠くても嬉しい思いだった。

人には分ってもんがあるのさぁ。
二年も女房気取りで世話が出来て、人並みの幸せを味わったんだから、あたしや果報もんだぁ。

おきわは袖で涙を拭うと、へっと云うように微笑んだ。晩秋の暗い空から、雨がぱらぱらと肩に降りかかった。

まったく空も泣きべそかぃ。

雨の中を永代橋の袂まで小走りで歩んでくると、おきわはもう一度だけと、振り返った。

同業のお旦那衆に引けを取らぬようしっかりねっ、
おまいさん・・

霧のような雨の中で雨宿りに駆け込む人達。

その人並みを割るように走ってくる人が見えた。裾を端折って両手を振って水を蹴立てて走ってくる。

おきわぁぁ、お店は弟にやってもらうよぉ話はつけてきたんだぁ、おれぁお前と暮らしてぇんだぁ~。

佐吉だった・・

おきわは、
まったくなんて馬鹿でぐずな人だぁね。
大声出してみったくないさぁ、びしょぬれじゃないかぃ・・

そう呟きながらも、降りしきる雨の中で、
佐吉の痩せた身体を力一杯受け止めた・・

おまいさん・・



まだ、ちょっと回復しませんで、記事の整理しつつ再掲載でお茶を濁してますの。
寒さ一段と厳しくなりそうです、皆様もご自愛くださいね。