遅かったのぉ、おかえりじゃ。
お蓮は口の周りに胡麻団子の胡麻をつけて、にいっと嬉しそうに笑った。
お蓮さん、口を拭きなされ。
それから,
松吉に茶と団子を頼んでやって下され。
おいよっ、松吉ご苦労だった。
たっぷり頼んでよいぞ。
へええ~ぃっ、胡麻団子四本と茶を頼みますよっ。いきなり満面の笑みの松吉であった。
それで、本日は何かありましたのか。
ふむっ、惣六、大事件じゃ。
お蓮は腰をずらせて、袖を引いて惣一郎を床机に座らせた。惣一郎は、懐から懐紙を取り出すとお蓮に手渡した。
惣六、お前は亡八者というの知っておるか。懐紙で口を拭うとお蓮は尋ねた。
あのなぁ、拙者は岡部惣一郎という立派な名前なのだ。お店の内ではいいが、外で惣六と大声で呼ぶな。
まぁいいが、亡八とは八つを忘れるとは、何であろうか。
だから惣六は世間知らずなのじゃ。
おいおいっ、大店の御嬢様にそう言われるとは、拙者の方が浮世の労苦は舐めているぞっ。
ふん、それが武士の驕りじゃ、町に疎いのじゃよ。
町にはお前の知らぬ労苦など、馬の糞ほどにころがっておる。
ぐふっ、う、馬の糞とか、娘がいうかなぁ。
お蓮は一つ深い息を吐くと、
実はな・・あたしの死んだおっかさんは、吉原亡八の家系でな、ひょんなことから、堅気のおとっつぁんの嫁に来たのだ。
あぁ見えても、おとっつぁんは若い時は色男だったらしいのだよ。今はしょぼたれて見る影も無いがなっ。でも、おしのが後妻に来てくれたから、まぁいいのだ。
おっかさんには、兄と弟があった。兄叔父は今も吉原で蓬莱屋という紅格子だ。身の恥を知ってる良きお人じゃ。
弟叔父もやはり女郎を抱えた亡八でなっ。名前の喜七をとって、ななつ屋という店だ。
亡八は遊女を抱える店のことを云うのじゃよ、遊郭の主人のことも字でそう呼ぶ。
ふむつ、滝沢馬琴の「八犬伝」は大層面白い読み物だが、それにもある、仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八つの徳を忘れ去ったという事なのか。
娘を買ったり、繋ぎ止めて春をひかせ、また売る。
そんなことをするからなっ。
わっちにそれを教えてくれたのは、手代の茂蔵じゃ、茂蔵はおっかさんの嫁入りの時に、喜七叔父が付けてくれた者で、叔父貴達にあたしの様子を知らせているのだ。
叔父達は野口屋には出入りせぬ、おっかさんが亡くなったからでない、おとっつぁんの看板に害の無いようになのさ。
おっかさんは、両替商の河内屋さんの養女という事になっている。
ふむっ、商家といえども、武家のしきたり並みに面倒なのだなぁ。
わっちはな、おっかさんの葬儀にも来なかった叔父御達に、茂蔵に連れられてこっそり会いに行った。
己の出自を確かめたかったし、日々、おっかさんを忘れてしまうようで哀しかったからな。
目を細めて叔父達は喜んでくれた。あたしの血の中にも、亡八者の血が流れてるってことだものね。
あたしの気性は亡八から来てるのかも知れない。
ちょいと見れば、お蓮は黄八丈にお染鹿の子の帯で、華やかな大店のお嬢様だが、そう言った時の暗い目の翳りが惣一郎の胸に沁みた。
まったく、小娘とは思えんへんな娘だなぁ。そこが面白くも思い、婿入りを承知した一番の理由なのだと思う。あどけないようで妙に世知にたけてるのだ。
それで、相談ごととは何でござるか。
惣六の腕を買いたいのじゃ。
弟叔父のは深川で、叔父は夜鷹も支配してるらしい。亡八者とは遊郭の自警団でもあるのさ。
ところがここしばらくな、夜鷹の辻斬りがあるそうな。夜鷹とは最下級の女郎でなっ。
ふむっ、承知してござるよっ。
おっ、お前、夜鷹を買った事があるんだなぁ。
あぁ、何という汚らわしい奴じゃっ。
いきなり、お蓮は泣きべそ顔になって身悶えた。
いやっその、一応は、男の嗜みを承知しておこうと、決死の覚悟で一度だけ・・
夜鷹の口を吸うたかっ。
いやっ、下だけで・・
何という破廉恥じゃっ、恥知らずじゃ。
お蓮は泪を零した。袖で顔を被って泣いた・・ふり。
お嬢様、お嬢さま、松岡様も祝言の前に、経験を積んでおこうと、御覚悟でなさったのでしょうから、そう責めてはお気の毒で。
松吉は口の周りに、胡麻たれをくっつけながら、生意気にも何とか惣一郎の危機を救おうとの差し出口。
うるさぃっと、お蓮に怒鳴られた上に、
要らぬ口はこうじゃと、口の端を抓られるありさまだ。
それで話の本筋は。
さりげなく惣一郎は、泪目の松吉をとりなすように、話を振り向けた・・