おやっ、松吉ではないか。

へぇぃっ、随分と待ちやしたの。

八つ下がりの午後の陽射しが、背中を暖める昼下がり。

霜月に入ってすっかりと冷え込んで、の淡い陽射でも、ありがたく思える季節だった。

すまんのぉ、稽古の後で井関先生から木刀磨きを仰せつかってなぁ。三十本も松油で磨いて肩がった。

おちゃっぴ、いえお嬢さまが先の茶屋でお待ちでやすの。

ほむっ、お前を見張りに出して、己は団子でも喰うておるのか。相変わらずの跳ね返りだのぉ。

まったくでございますの。
野口屋は、旦那様もお内儀様も鷹揚なお方でやす。

番頭さん手代さん若衆のみなさんは、稼業が札差ですから、ちいと強面なとこもございますが。酷いこともしやせんし、時には蕎麦も奢ってくれやすが、嬢様はねぇ人使いが荒くってたまりやせんの。

あっ、それでも岡部様はあの暴れうま、おっとお嬢様の許婚様でやんした。言いつけ口しないで下さいなっ。おいらは口が滑るのが玉に傷ってもんで。

ふむ、玉に傷とは、松吉は物知りだのぉ。武士には武士の辛さ、丁稚には丁稚の苦労があるもんだ。

惣一郎は松吉の肩に手を置いて、宥めるように微笑んだ。

神田玉池稲荷下の井関道場は、知られた一刀流の道場で、旗本・大名の子息も通う名門道場である。

しがない御家人の子息である岡部惣一郎は、出世もお役も望めない鬱屈を、剣に打ち込むことで凌いで生きてきた。

けれど、母親と弟妹の暮らしは否応無く両肩にずっしりで、道場の代稽古や掃除などまでやって購っている。

口入屋の相模屋は、惣一郎の大らかな性格と、
律儀な勤めぶりに感心して、良い仕事口を回してくれ。そうして御厨河岸の札差の用心棒の口が、野口屋だった。

そこで娘のげんのしょうこと字なされた、跳ね返り娘のお蓮と出会った。

ちょいとばかり鼻が上向いているものの、この鼻っぱしらの強い、おきゃんな娘はなかなかに可愛い。

振り回される面倒はあっても、その気性のまっつぐさが惣一郎には好もしい。こういうはっきりした女しょうもいいではないか。

しなしなと、風になびく柳なのが世間では可愛い良い娘だが、おちゃっぴぃは、伊達で町家の粋が面白い。

鍋町の人を避けて、小藩の屋敷塀の間を抜けて底冷えのする町を、二人は神田川沿いの茶屋へ歩いて行った・・