饗応で持て成すんじゃなくって教養なの。教養っていうとすごく高尚な気がするんだけどね。
覗いた2チャン系のスレで、教養の話が出ていて読んで面白かったですの。
若い人達の間でも、パチスロと競馬の話しかしない職場を嘆いたり、、音楽や本の話や政治的話題が出来ない人が多いと、嘆いている人もおりやす。
(アフリカとサウジアラビアとインドの区別がつかない→バカ)とか言ってる。でもスペインでも日本と中国、韓国の区別付かない人多いいからね。
(確かに教養がある奴との話が楽しいのは確かだが、それはオタ同士の会話が楽しいのと大して変わらない。一番重要なのは誰とでも会話を楽しもうとする姿勢であって、そのツールが広い教養であると理解してることだ。それを持ち合わせない奴は教養を鼻にかけたいだけのバカだ)
ほむ、兄ちゃんなかなか良い事言うねぇ。
(知識無くても、会話が上手な人とは話してて面白いよね。人間なんだから得意不得意は当然あるんだし、知らない話題でも質問が上手いと盛り上がれる)
確かにそうだねぇ。
西洋的な解釈、リベラルアーツなんかと、日本の感覚でも違うよね。たばかれーらさんの記事コメントで拝見した言葉ですが、
(今の日本に足りないものがあるとすれば、それは教養だと私は考えています。
一揆にだって作法がある、とは以前にこのブログで書いたことがありますが、こうしたことも教養の一端として知られておくべきなのでしょうが、どうにも忘れられています。
政治の話にしろ、経済の話にしろ、前提となるべき知識が必要なのに、それを知ろうともせずに語るのは時間の無駄だと思うのです。せっかく生かすべき遺産がたっぷりあるのになぁ。)
全くそう思うんですの。
あのね、知識量でも権威でも無いのでございます。
むしろ日本本来の教養とは土に根ざした普遍なもの。晴耕雨読って言葉もあるくらいですからね。その遺産は歴史のある日本にはたっぷりある。
そして人の話や書いたものからも、刺激や触発を受けようとする、心の柔軟さ、読んでほぐして噛み砕ていく、自分なりの経過を楽しむ許容心でしょうか。
キャッチボールが出来ないと、話が広がらないのも事実だね。ブログでもコメントが嬉しいのは、投げた球を誰かが受けて、それを取れるように投げ返してくれるってことですの。
剛速球返されると、受け止められないしね。まいりましたになっちゃう。婆ぁの呟きに、コメ下さる方に感謝ですの。
知識、常識、知らぬ事を知らないと言える謙虚、
キョウヨウの無い自分には、学ぶ事は限りなくあるんだけどね。
もう今更、常識も知識量も限りがあるんで、せめて知的好奇心だけはね、もち続けたいなぁ。
好奇心は多々あるんですが、知的かどうかは不明でございますのん。
時間が有る時は、その時間の贅沢さに気付かず、学ぶ事も無くだらだらと過ごしてきたのでやす。
残された時間では、本も映画も資料も限りあるんですが、キョウヨー人ってのは偉い人でもなく、むしろ役にも立たない事に、時間を費やした人だろうと思うのよね。
無駄は無駄では無いと思うし、馬鹿な人、でくのぼうが面白い。
但し、今の政治家はでくのぼうの美しさは無いよね。えらそうに言わせて貰えば、教養も知性も感じられない。維新とか名づけちゃって意味判ってんのかなぁ。
あたしゃ愚かな負け組みかもしれないけど、あの人達より、ましな教養は、僅かでもあるってぇもんだぃ。べらぼうめっ!