人は育つ過程で何を自分の規範とするかっていうと、
まずは親の背中だろうと思うの。

親は前に向いては色々と偉そうなことを云うんだけど、
その背中には本音が表れちゃったりするんだよね。

今という時代は、
情や昔の規範や文化とかが随分、
失われてしまった時代なんだと思う。

これは精神的支柱を失っているって事で、
まさに戦後の米国の支配が大変上手く働いて、
神も仏も無い、
物と金に支配されてしまった修羅のようにも見えるの。

共に生きる共生感や助け合う気持ちは、
あってもらっちゃ困るという考えが、
植民地を支配する側には当然あるんだと思うよね。

多分見えない所であれこれと心の分断を図るような、
そういう策謀もあるんだろうね。

それでも日本人の情や哀れの心は、
刷り込まれた連綿としたものとして流れていて、

だから今でも情話や青年の鬱屈や子供達の閉塞感に、
切なくなったり、ほろりとするんだよね。

ご老公様があっぱれな裁断をすれば、
あ~っよかったねぇ~と安堵したりする。

少年の犯罪報道や虐待の報道を見れば、
どこかで手を差し伸べられなかったんだろうかと、
胸を痛める。

人の心には色んな経験や自分の事だけでなく、
時代を共に過ごす他者に対しても、
思いやる気持ちがあると思いたいのですね。

だから小説や映画に感動したり涙するのよね。

そんでそういう感受性は大人の姿を見て、
影響を受けることも多分にあるような気がするの。

親であったり叔父さんであったり先輩であったり、
教師であったり周りの大人を観ることで、
刺激されて自分の考えの中に育んで行く。

今の若い者はとか今の子供はって、
大人が言う時にはそういう次世代を育てた、
環境って言うか背景も思わないとなんないの。

江戸物を書いていて思うのは、
おせっかいでもそのおせっかいを全うしようと、
損得抜きに動く大人を見て、

自分もそういう心意気を持った、反骨の精神を持った、
大人になりたいと思う子供の目線ですの。
そういう大人が少なくなった現代ですもんね。

自分がどういう背中を見せてるか、
大人の背中が子供を育てているんだと、

そんな気持ちで、
改めて自分を恥じたりするのでした・・