朝青龍引退に思う事 | 豆太郎のブログ

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「横綱・朝青龍(29)=本名・ドルゴルスレン・ダグワドルジ、モンゴル出身、高砂部屋=が4日、現役引退することを表明した。朝青龍は「いろいろあったが、引退した。今は晴れ晴れしている」と語った。」

大相撲初場所での優勝決定戦で、朝青龍のガッツポーズについて横綱審議委員会で苦言が呈されるなど、横綱としての彼の品格を問う騒動は度々起きていましたね。横綱が土俵でのマナーを問われる時点で、既に朝青龍には横綱の資格が欠けているとは私は思っていましたが、世間では賛否両論だったと記憶しています。

今の日本には様々な格闘技が存在し、本当の真剣勝負を売り物にした格闘技がある一方で、大相撲のように、国技と世間で思われている格闘技が興行的に成り立つというのは、素晴らしいことだと思います。ですが、一方で相撲もK1も同じ格闘技、ガチンコ勝負なのだから勝ったらそれで良いという視点で大相撲を語ることに、私自身は違和感を覚えていました。

さて、最初に書いた朝青龍のガッツポーズに、どうして賛否がわき起こるかについて話を戻します。

日本人の中で、相撲という格闘技においてのみは、土俵の上で、一旦勝ち負けが決まったら、勝った方が負けた方に優越感を示すのではなくて、いたわりの気持ちを見せることが大事とする感性があるように思えます。そんな勝者が敗者に敬意を表することを是とする、日本人の中のモラルに反する行為だからこそ、朝青龍のガッツポーズがどうしてもおかしいと思ってしまう人がいるのではないでしょうか。

確かに、敗者は負けたのですから、そんな相手を格闘技という弱肉強食の世界に於いては、目を向けたり、心をかけたりする必要はないという考え方が一方で存在することは理解出来ます。

ですが、未だに水戸黄門がテレビで制作されたり、鬼平犯科帳が書店に並んでいるのは、日本人のモラルの源流に、「弱きを助け強きを挫く(強きを挫き弱気を助ける)」という観念があるからではないかと思います。この考え方は元々、儒教のいう「仁義」を拠り所にする思想です。仁義を重んじれば、困っていたり苦しんでいたりする他人を助けるために体を張る自己犠牲的精神が自ずと生まれるとされ、これを「任侠」の気質とよんだのが「史記」の司馬遷です。今では『任侠』=暴力団と連想されがちですが、江戸時代には「任侠」は「男気」や「男伊達」として江戸っ子の間ではもて囃されました。まあそれだけ、反体制的な心情が根付いていた証拠です。要するに、権力者は支配する者達を労る気持ちを持てという世論が有ったという話です。

そういう時代に、神事であった相撲は、興行として変化していき、今の大相撲へとつながっていく発展をしていくのです。そんな中で『相撲道』という武道としての思想も培われ、その中には前述する任侠の精神も取り込まれていき、勝者は倒れた敗者に手を差し伸べて引き起こすというようなマナーが求められるようになっていったのでしょう。

私達日本人は、そういう経緯を知ってか知らずかは別にして、当たり前のように相撲とはそういうモノだと思っている人が相当数いると思います。だかこそ、朝青龍のガッツポーズにどうしても違和感を覚えてしまうのです。

だから・・・外国人力士は、と私は敢えて言いません。外国人の中には日本人よりも日本人らしい人が大勢いますから。

ただし、朝青龍はそういう日本の伝統とか文化には関心も素養もなく、勝者絶対的な心情を持ってる態度を示してるのは何故なのか?しかも横綱にまで登り詰めておきながら?

この点に首を傾げる人が大勢いるのは事実です。その上の暴行騒動ですからバッシングはある程度仕方がないでしょう。

ご本人は初場所で優勝したんだし、こんなに強くて現役としてあと数年は横綱をはれる自分が、たかが知人とのいざこざごときで角界を追われるなんて、それこそ想像出来ない話しだったのでしょう。それまでは色々問題を起こしても、譴責や休業ですませてきたんですから当然と云えば当然です。

しかし、本来批判され退職を勧告されるべき相手は、その師匠高砂親方(元朝潮)ではないでしょうか。朝青龍という部屋一番の看板力士育て方をみてると、その資質の方を疑いますね。

今世間は世知辛くなって、儲けさえしたら他人はどうなってもいい、強気者だけが生き残るという風潮に、日本人全体が違和感や忌避感をもっているのではないでしょうか。だからこそ、身近で強いけれど品格に欠ける朝青龍へその怒りをぶつけたいのかも知れませんね。