(注意)
今日のエントリは、いま精神的にしんどい、減薬中という方は読まないでください。
悲しい話です。
辛すぎる話なので……。
知人が亡くなりました。
3年ほど前、メールをもらってからの付き合いでした。
今年の「ベンゾ注意喚起の日」の7月11日にも、一緒に厚労省に行き、彼女は役人に対して多くのことを訴えていました。
いま、彼女から送られてきたメールを読み返しています。
最初に届いたのが2013年10月。
こんな内容でした。
「私はすでに服薬歴16年のベテラン?です。しかも2年前まで、なんとリタリンを服用していて結局、自殺未遂をしてしまいました。その後、リタリンの断薬のため入院しました。
リタリンはやめられましたが、それを補う形でベンゾジアゼピンの薬が増えました。
今、頑張って減薬していますが、心身共に苦しくて、毎日苦しみながら、1日が終わるのをじっと耐える日々に、離脱症状は飲んだ年数かかるという人もいて、私は62才にもなるのでもう無意味なことをしている気がして心が折れます。
でも飲み続けていても量が増えていき、それにより離脱症状もひどくなり、飲んでも飲まなくても地獄の苦しみです。
独居生活なので、今はパートでわずかな収入とわずかな年金で暮らしていますが、苦しさと目が霞むなどの離脱症状で仕事を辞めるのも秒読み段階で、生活面での不安でも押し潰されそうです。
精神科の先生、薬を処方し続けてこれ以上罪を重ねないで下さい。」
私が返事を出すと、彼女は堰を切ったように次々メールを送ってきました。
「私は更年期バリバリの40代の頃に……(注・いろいろなことがあり、精神的に追い詰められてしました)。実は私は看護師でその時運悪く?精神科に勤務していました。医師がすぐに処方してくれました。その時は楽になって有りがたかったのですが、その量はあっという間に増えて行きました。
まさかこんな事になるとは思わず治ることを信じて飲み続けました。そして16年。今では死にたいと思わない日はありません。
その後、数件のクリニックにお世話になりましたが、年々若い患者さんが増えたことと患者数が何倍にもなって待ち時間が何時間ということも珍しくなくなったことに胸が痛むと共に、今の精神科に憤りを感じます。
私達患者にとってこの苦しさを体験したこともないかこさんが私達よりも深い知識を持ち私達の声を代弁してくれることにどれだけ心が救われるか、かこさんの存在を知ることが出来た私は幸せです。長くなりすみません。またメールさせて下さい。」
「かこさんは大勢のベンゾ薬害患者から苦しみを訴えられて、心は大丈夫ですか?そのことが凄く心配です。と、言いながら私も苦しさのあまり、心でお詫びしながらもついメールさせて頂いてしまうのですが。
16年前、ツラい悩みが重なり、胸の辺りが高い所から飛び降りた時に感じるあの胸がすく、というのかヒュ~というような感覚が起きるようになり、医師に相談したところドグマチールを処方してくれました。それは不思議と良く効いて、その症状が出るたびに飲んでいましたが、そのうち他の医師からリタリンを飲めば元気が出るよ、と言われ飲んでみました。
初めて飲んだ時は病棟を走り回るくらいじっとしていられない不思議な感覚を覚えました。それ以来リタリンが止められず、転医する度に、医師にお願いして出して貰っていました。ちなみに私にリタリンを勧めてくれた医師もリタリンを爆飲みしてたみたいで、2001年、自殺しました。
私も止めるどころか飲む量は叙々に増え続け、止める二年前には毎日身体を起こす前に三錠もの量を飲まなければ効き目がなかったのです。いえ、本当は三錠では足りなくなっていたのですが、それ以上はさすがの精神科医も出してくれなかったのです。
その頃すでにリタリンはうつ病には適応がなく、私の病名をどのようにしたのかはなんとなく怖くて聞けませんでした。その後、自殺未遂をしてこの際リタリンを止めたくて1ヶ月の入院をしたのですが、そこの医師はリタリンを漫然と処方し続けた医師に激怒し、直接その医師に抗議し兼ねない状況だったので、私が切に希望してのことで私が悪いので先生に連絡するのは止めて下さいとお願いしました。
リタリンは止められても代わりになるものがないと苦しさで気が狂いそうになってしまって、退院後元の医師のもとに返されたので、そこでデパス0.5を朝昼夕に1錠ずつ、寝る前にデパス二錠、トフラニール25を二錠、マイスリー二錠、ユーロジン、ベンザリン、レンドルミン等の睡眠薬を取っ替えひっかえ、私の眠りに合わせて変更して貰っていました。
そのうち躁うつ病の疑いがあるということで、ランドセン、リボトリール、新薬?ラミクタール等を試されました。
今は精神科医に絶望して近医で薬だけ貰っていますが、デパスと睡眠薬は止められません。でも、少しずつでも減薬したくて自分と闘っていますが、毎日のように挫けそうになり、今日も4時から仕事ですが、涙が止まらないため目が腫れてしまって仕事にも支障をきたすと思いながらも苦しくて頭も破裂しそうで記憶力も落ち、不安な中で仕事しています。
看護師はある意味、技術が必要ですので、二年前のCTで前頭葉の萎縮が見られた私は極度の不安の中で1日1日が無事終わる事を不安一杯の中、祈るような気持ちで出勤しています。職場では苦しい顔も出来ず、それがとてもツラいです。眠れないことは恐怖です、断薬なんかとてもムリな気がします。経済的に許されるものならリタリンを止めさせて貰った病院に入院して可能な限りの減薬に持っていきたい気持ちで一杯です。」
彼女とはその後、メールで何度もやり取りし、この入院についてもあれこれ話し合いましたが、結局、うまくいきませんでした。
その後、茶話会で実際お会いして、さらにリッチーさんの会にも出席するようになり、「辛いけれどやはり減薬をしたい」という彼女をリッチーさんの紹介で赤城高原ホスピタルまで同行したこともありました。
3人での珍道中。リッチーさんがまだ離脱症状の影響から新幹線乗車が難しかったため、鈍行列車での群馬までの旅でした。
車中、彼女の看護師時代の話をたくさん聞きました。
手術につくのが好きだったこと、あの緊張感が、看護師としてのやりがいを感じる瞬間だったと言っていました。有能な看護師だったのだと思います。
赤城への入院も、なかなか踏ん切りがつかず、飼っている猫を心配し、薬が一切飲めない状況を不安がり、薬をやめたい、でも薬がない状態に心身がもうついていかないところまでいってしまっているようでした。
711のとき、彼女は自分自身に一生懸命鞭打ちながら、重い心と身体を動かして、霞が関までやってきたのだと思います。そのときのlineのやり取りも残っています。
陳情の場で、彼女は看護師として感じる精神医療の異常さを切々と訴えました。
そして、そこに自分がはまってしまったことの口惜しさ……そんなこと思わなくてもいいのに、減薬が進まないことへの私たちに対する申し訳なさ。
今、3年前のメールを読み返してみて、さまざまなことが浮かんできます。
○○タン、辛かったね。ごめんね。何の力にもなれなくて。ごめんね。
3年前(いやそれ以上前)から、あなたはずっとずっと、向精神薬という薬の暴力と闘ってきたんだね。
毎日、毎日、1秒、1秒。
そして、疲れてしまったんだよね。
あなたは今頃、私たちに謝っていると思う。負けちゃってごめんなさい、弱い自分でごめんなさいって。あなたってそういう人だから。
でも、謝ることなんかないよ。○○タンのこれまでの時間は、たぶん「絶望」との闘いだったと思うから。つらすぎる闘いだったと思うから。
そして、本当の意味であなたに寄り添えなかったこと。こちらこそ、ごめんなさい。
あなたの許可も得ずに、メールを公開して、すみませんでした。
でも、あなたが確かに生きていたこと、私たちと交流したこと、そしてあなたが薬と闘い続けてきたことを、このブログに残しておきたいと思いました。
○○タン、さようなら。