あけましておめでとうございます。

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 ところで、年末、最後のエントリにコメントを投稿された「医療は残酷ではないさん」。このコメントはどうやらどこかのブログの記事をコピペしたもののようですが、なぜ、これを匿名でこのブログの記事にコピペしたのか……?

要は、離脱症状で大騒ぎすぎるな、ということが言いたかったのでしょうが、自分の言葉を持っていないので、他人の文章を拝借したということでしょうか。すでにコメントにもこのコメントに対する意見が多数書かれていますが、年末年始ずっと気になっていたので、今回はちょっと考えを述べたいと思います。(この記事を書いた精神科医はそれなりに相談者に対しては誠実に対応されているようでもあり、個人的に攻撃するつもりはないことをお断りしておきます)。


まずは、「医療は残酷ではないさん」のコメントです。

 向精神薬の離脱症状で苦しんだなどのブログなどを読むと、一部分は薬の効果と考えられる気分の変化、急激な減薬による離脱、薬物の中止による本来の精神症状の再燃(元々あったものと異なることがある)などがゴチャゴチャになっていると感じるものがある。

向精神薬は、中止後、これは酷すぎると思われる離脱が生じたら速やかに服薬用量を元に戻すのが最も無難であり成功率が高い。

ところが、中止を決断し、一部は再燃と思われるものを離脱と判断する人には、元に戻すという決断ができない。ここが症状が複雑化する分岐点と思われる。

こういう不幸な経過を辿る原因の1つは、向精神薬のネガティブキャンペーンと向精神薬に対するスティグマも関係していると言わざるを得ない。これは一部マスコミも責任は大きい。

 また、悪意はないと思うが、不幸な経過を辿った人はアピールすることで、結果的に他の人も不幸な境遇に陥れている。これこそ負の連鎖である。


 この最後の文章は、深読みすれば「不幸な経過を辿った人はアピールする」ことをこのブログは奨励し、そのことで「他の人も不幸な境遇に陥れている」と読めないこともありません。平たくいえば、「離脱症状で苦しんだ経験を知ることで、離脱症状がさらに苦しいものになる」「そういう負の連鎖を体験談は作り上げている」ということでしょうか。それとも、臨床的にそういう実感がおありということでしょうか。



また、「向精神薬は、中止後、これは酷すぎると思われる離脱が生じたら速やかに服薬用量を元に戻すのが最も無難であり成功率が高い。」 

この文章は私には意味不明でした。

成功率が高い……何の成功率でしょう? 断薬を放棄して、再服薬をすることで「成功」するということは、つまり医師として患者が離脱症状を訴えなくなりおとなしくなる……それを「成功」と考えているということでしょうか。要するに、あくまでも医師の立場の「成功」です。(「医療は残酷ではないさん」が医師であるという前提で書いています。この文章はどう読んでも医師側から書かれた文章です)。

さらに、再服薬しても一度起こった離脱症状が「無難」と思えるレベルまで改善することはほとんどない(科学的に理由は不明だが)と、これはアシュトンマニュアルの中で、ヘザー・アシュトンも書いています。


「ところが、中止を決断し、一部は再燃と思われるものを離脱と判断する人には、元に戻すという決断ができない。ここが症状が複雑化する分岐点と思われる。」

 その症状が「再燃」かどうかはわかりませんし、次に続く文章でそのような「不幸な経過を辿る原因の1つ」として「ネガティブキャンペーン」や「スティグマ」云々を第一に挙げるのは、問題のすり替えのような印象を受けます。

「向精神薬のスティグマ」――薬について否定的な感情を植え付けられた(マスコミによって)その結果、服薬後に否定的な反応を示すということがいいたかったのかもしれませんが、「不幸な経過を辿る原因」としてはもっと重要なことがあるのではないでしょうか。



 たとえば、そこではカプランの教科書が紹介されています。

「SSRIの離脱症状は通常、6週間以上の服薬がなければ出現せず、たいてい出現後3週間で自然に消失する。」

つまり、3週間以上続くSSRIの離脱症状は「再燃」と考える――離脱症状を訴えて受診した際多くの人が医師から言われた説が、カプランの教科書に登場しているわけです(しかし、これはあくまでもSSRIの離脱症状についての説でベンゾについてのものではありませんが、「3週間」は医師のお気に入りの期間のようです)。


さらに、こういうことも書かれています。

「他の精神科の書籍では、パキシルの離脱症状はほとんどが良性であると記載されている。

これらの指摘は、実際の臨床経験に一致している。つまり、インターネットで宣伝されているSSRIの離脱症状は誇張されすぎていると言える。言い換えると、インターネットをするような人だからこそ、向精神薬に脆弱でSSRIの離脱が酷い特異体質の確率が高いのである。」


インターネットと特異体質、離脱症状の因果関係がどこまであるのかわかりませんが、「インターネットをするような人だからこそ、向精神薬に脆弱」「インターネットをする人は特異体質の人が多い」というのは、ちょっと「風が吹くと桶屋が儲かる」くらいの論理の飛躍があるように思うのですが(というか、書き方が科学的ではないような気がします)。

さらに、ひどい離脱症状が出現するということは、「患者さん本人の過失、つまり急激な減薬によるケースが稀ではない」と……これは一部そうだと思います。

そして、さらに続く文章には、賛成です。

「しかしその人の忍容性の低さの要因が大。その人がなぜ急激に中止を思い立ったかと言う、その決断も重視したい)」


 離脱症状の出現の仕方は千差万別です。同じくらいの薬の量、服薬期間であっても、離脱症状は本当に人それぞれ。敏感に感じて大変つらい状態に陥る人もいれば、案外スムースに減薬していける人もいます。

 カプランの文章にもあるように、数としては、「SSRIの離脱症状はたいてい3週間で消失する」人が多いのでしょう。しかし、「全員」ではありません。その割合はどれくらいのものなのかわかりませんが、ごくごく少数とは言えないくらいの割合で「3週間で消失」しない「忍容性の低い」人もいるのです。このことはこの医師も認めています。

 しかし、問題はここからです。

 忍容性の低い人がいて、ひどい離脱症状を訴える……これに対して多くの精神科医の対処の仕方は、「そんなはずはない」「離脱症状は3週間ほどで消える」という教科書通りのことを、現に目の前で苦しんでいる患者に押し付けて終わりにしてしまうということです。

 多くの患者がそうだったからといって、例外はどの分野にもつきものですし、そもそも精神医療などというものは、例外だらけの分野だろうと思います。にもかかわらず、教科書に書かれている数字を持ち出し、それで「忍容性の低い人」を切り捨ててしまう。

 精神医療の問題の根の一つはここにあります。

 そして、こうした議論の中で決定的に欠けている視点――それは、離脱症状の問題は「薬」だけの問題ではない、という視点です。

これは前段で「特異体質」として指摘されていて、そういう薬剤過敏性は大きな因子ではあるでしょう。

それだけでなく、いわゆる「発達特性」の問題も大いに関係しているように感じます。物事への対処の仕方の癖や極端な白黒思考、「信じ込んだら命がけ」等々の特性が、離脱症状の感じ方に影響を与えることがあるように思うのです(この意見に反対の人も多いと想像はしますが)。さらにはトラウマ体験やACの問題も離脱症状の出現に無関係ではないでしょう。

「離脱症状はその人の弱い部分をさらに攻撃するような形で出現する」というような意味の言葉をときどき耳にします。これは、身体的なものだけでなく、精神的なものも含めてそうなのだろうと思うのは、上記のことがやはり関わっているからでしょう。

しかし、そういう視点で離脱症状にアプローチしようという試みは精神医療には見られません。そもそも離脱症状へのアプローチそのものがほとんどないのですが、せいぜい行われているとしても、薬の減らし方の工夫、あるいは置換方法についてのアプローチにすぎないのです。



ここまで荒廃していると思える精神医療が、相変わらず成立し続けているのは、なぜなのかと考えることがあります。

それは、おそらく、引用のブログの文章にもあるように、多くの患者は教科書通りの反応を示し、教科書に書いてあることは「実際の臨床経験に一致している」と精神科医たちが考えているからでしょう。

また、精神科医たちは「忍容性の高い」人を基準に治療を行い、その結果(しかもプラセボを含めた短期の結果)だけを見て、「寛解している」「治っている」ゆえに「薬物治療は有効」としているからです。

言い方を変えれば、副作用や離脱症状に苦しむ「忍容性の低い」人たちを切り捨てることで、現在の精神医療は成り立っているとも言えます。しかも、「臨床経験に一致している」と医師たちが感じることを患者も同様に感じているのかどうかは怪しいものです。「効果」を感じているのは医師だけだという話もじつによく聞くことだからです。

そして、もちろん、「忍容性の高い人」でさえ、被害を受けてしまうほどの「恐るべき治療」がまかり通っている現実もあります。


それでも多くの精神科医たちが平然と日々の診察を行えるのは、忍容性の高い人たちに投薬することで、問題が表に出にくいからでしょう。

そして、このブログに体験談を寄せてくれた人たちは「炭鉱のカナリア」のごとく、この精神医療の根本問題に敏感に反応した人たちであり――それを特異体質といい、忍容性の低さといって切り捨てるのではなく、「精神医療はそういう危険性を孕んだ医療である」という自覚へと向かわなければ(そして、そういう人たちも存在するという前提のもとで医療を行わなければ)、被害は減少するどころか増え続けることでしょう。

そして、たとえ忍容性の高い人といえども、「炭鉱のカナリア」がいち早く異常を知らせてくれたように、年十年もベンゾを処方され続け、副作用を病気の症状とされてマッチポンプの投薬を続けられれば、いずれ心身に破綻を来します。

その意味で、ブログ主の精神科医が「精神科の薬物治療が成り立たないとは、精神疾患が治療できないというのと同じだ」とすらりと書いてしまうその心性、薬物療法一辺倒の考え方に何とも言えない傲慢さと「恐ろしさ」を感じるのです。



「医療は残酷ではないさん」のコピペはこの部分だけですので、これ以上論評のしようがないのですが、元の文章を読むといろいろなことがわかります。