聡子さん(仮名)という29歳の女性から、以下のようなメールをいただいた。


「私がはじめてメンタルクリニックに通い始めたのは18歳、まだ学生のころでした。

それから約10年間、場所と病院を変えながらも通院し服薬し、かこさんが指摘されている通り、薬漬けになりました。

過去につけられてきた病名も、精神医療界の流行に忠実に従ったもので、正しい診断とは全く無縁のものばかりでした。

そんな私ですが、昨年秋に結婚したことから状況が変わりはじめます。

現在は、薬を飲むことも、通院もやめています。障害者手帳・医療福祉受給者証・障害者年金も手放して、いってみれば「10年前の自分」に戻ったわけです。

薬をやめようと思った理由はいろいろありますが、一番は「子どもを産むか産まないか」の選択だったと思います。

薬を飲みながらの妊娠出産育児なんか絶対無理だと思っていました。でも、たったそれだけで子どもを諦めるなんて理不尽なことは絶対に嫌でした。

それからは自分で勉強し、何が何でも産んでやるとの思いから、試行錯誤の末に断薬しました。そして、幸運にもその後子どもを授かることができました。いま妊娠6ヶ月、12月に出産予定です。」


こんなメールをいただき、ぜひ聡子さんにお話をうかがいたいと、メールのやり取りが始まった。



大学のカウンセラーからメンタルクリニックを紹介される

聡子さんが精神科のクリニックと関わることになったのは、大学1年の春休み(18歳)のこと。迷いながら進学を決めた大学だったため、1年経ったころ、本当にこれでいいのかと迷いが出てきたのだ。今思い返せば、思春期、青年期にありがちな心の揺れに過ぎなかったと思うのだが。

大学には学生相談室があり、聡子さんは興味も手伝って、気軽にカウンセラーに面談することにした。が、相談というより、結局、近所のメンタルクリニックを紹介されただけだった。一応受診してみると、個人開業の医師で、時間はゆっくりとってくれたが、薬が処方された。最初に処方された薬は以下の通り。

トレドミン

レンドルミン(2~3ヶ月後、サイレースに変わる)

アモバン(眠れない時の頓服)



病名は「抑うつ神経症」のことだった。しかし、このとき、聡子さんが「私は何なんですか?」と質問をしたところ、医師は少し怒ったような声で「病名をつけるなら抑うつ神経症です!」と答えたという。そして、診察中、聡子さんの口から、うつ的とか、眠れないとか、困っている話が出てこないと納得しない様子だった。聡子さんとしては、なんだか怖くなり、また信用もできず、半年ほどで通院をやめてしまった。

この頃は、まだ学校に行くこともできたし、アルバイトも可能だった。




大学病院の精神科で状態悪化

次に精神科と関わったのは、大学3年生のとき(20歳)である。

就職活動を始めなければならず、学校とアルバイトの忙しさも手伝って気分が落ち込みがちになった。バイト先で細かいミスが目立ったり、疲れて朝起きられないことが多くなったり、パニック障害のような症状も出てきた。

そこでまたしても学生相談室を訪ねると、今度は、都内の大学病院を紹介された。しかも、そのカウンセラーの知り合いの医師を名指しで紹介されたのだ。

診察の結果、診断は、「うつ病」とのことだった。

パキシルが処方され、「飲むと眠くなる」と言ったところ、アモキサンに変更になった。

そして――、



 聡子さんのメールを紹介する。

「ここからの数年間がかなり恐ろしいことになっています。当時はまだお薬手帳が制度化されていなかったので、実は私はこの間自分が飲んでいた薬の名前と量をほとんど覚えていないのです。それどころか自分がどんな生活をしていたのかも覚えていません。あとで、それも薬の副作用だったと知りました。」



思い出せる限りで、少なくとも大学病院で処方された薬は以下のようなものだった。

パキシル―→アモキサン

メイラックス(ソラナックスもあったかもしれない)―→ワイパックス―PZC

もちろん睡眠薬系も出ていた(はず)。



聡子さんはこの大学病院に、卒業して地元に帰郷するまでの間、ずっと通った。しかし、記憶は曖昧である。

ただ、処方された薬を飲んでしばらくして(大学4年生の秋くらい?)ひとり暮らしができないほどに生活が崩壊してしまった。そこで、とりあえず、実家から学校のある東京まで通う生活(3つほど県を超える距離)を続けて、なんとか半年遅れで卒業することができたのだ。

その頃の記憶に残っている自分の状態として、感情の退行(子供っぽくなる、実際母親がそばにいないと取り乱してしまうようになっていた)、下まぶたの痙攣(診察に付いてきた親が医師に尋ねたが、薬は関係ないとはっきり答えた)、全身けいれん(てんかん発作のようにいきなり倒れる。1時間くらい意識がなかったと親から聞かされた。)

また、聡子さんは通院と並行して学生相談室でカウンセリングも受けていた。いま思えばカウンセリングだけで充分だった気がする。が、プロの臨床心理士でも、聡子さんがぐったりしている原因が薬だとは見抜けないようだった。

そして、半年遅れで大学を卒業後(23歳の9月、これははっきり覚えている)、実家から通える地元の病院に転院した。

しかし、ここからさらに長い道のりが始まることになったのである。



地元の大学病院へ転院するもさらに状態は悪化

「実家から通った病院も大学病院でした。総合病院ならどの科にかかっているのかバレにくいし、なにより大学病院なら大丈夫だろうという考えからです。

最初の医師は女性でしたが、そこに女性同士だからという配慮は感じられませんでした。転勤に伴い、その医師による診察は2回だけで、違う医師に変わりました。処方は東京の病院からもらってきた紹介状の内容のままでした。

次の医師は男性で、若い先生でした。たぶん研修医を修了して、2~3年外の病院に勤務したあと大学に戻って、病室医(病棟担当)から外来に上がったばかりだったはずです。ランクでいう助教です。」


この医師は、自分の意見を言わない人だったという。聡子さんの言うことをカルテに書いて相槌を打つ程度。聡子さんはこの医師から病名をまったく告げられなかった。処方される薬もその時その時の状態に合わせて出されていたので(対症療法そのもの)、ありとあらゆる病名が考えられるような投薬内容になっていたと思われる。

聡子さんは病院に通院しながらも、半年くらいは働いたこともあった。そうしないと世間の目もあり、体裁が悪かったからだ。しかし、布団から起き上がれない日が1週間以上も続き、欠勤(無断)も増えて、辞めざるを得なくなってしまった。

その頃は、聡子さん自身も、家族も薬のことを疑ってみることなど一切なく、「具合が悪いから」と思い込んでいたが、今から思えば、薬が効き過ぎて起きられなくなっていたのである。

しかし、こうした経験が、聡子さんも家族も、「やっぱり病気なんだ」というあきらめにも似た思いに追い込む結果となった。



地元の大学病院に通院し始めてどれくらい経った頃のことか記憶がはっきりしないが、聡子さんは入院することになった。特に状態が悪くなったというわけではなく(状態はずっと悪かった)、ふと「死にたいと思うことがある」――そんなことを言ったのが原因だったのか――「それなら、少し休みましょう」ということになったのだ。

 聡子さんとしても、実家にいるのも気づまりだったし、入院をすれば少しは楽になれるかもしれないと期待したところもあったので、入院に同意した。

しかし、この入院をきっかけに、3か月サイクルで(大学病院では3か月で一応退院となるため)入退院を繰り返す生活が、その後3年間も続くことになったのだ。



うつから双極性障害Ⅱ型へ

「3年が過ぎたころ、何となく出されたセロクエルが劇的に効くという出来事がありました。そしてその頃ちょうど「なかなか治らないうつ病は実は双極性障害ではないか」という説が有力になってきているときでした。

さらに通っていた大学病院は当時の精神科教授が院長に就任した時期でもあり、それから現在に至るまで実質的な権力を握っている現精神科准教授がたまたま気分障害の専門家で、そういった背景も少なからず影響して、私の病名も「Ⅱ型双極性障害」となりました。

主治医が病名を告げたのはこれが最初で最後です。

治療方針も躁うつ病をメインとしたものに大きく変わりました。

いわゆる気分安定薬を中心に、躁うつ病の特徴の説明もされたし、薬をきちんと飲めば普通の人と同じ生活ができますよ、とも言われました。(認可される前からラミクタールを使っていたりもしました。)

――注・ラミクタールはもともと抗てんかん薬である。それが、発売元のGSK社が2011年7月1日、「双極性障害の気分エピソードの再発・再燃抑制」の適応を取得し、双極性にも処方されるようになったのだ。

私も家族も、やっとこれで救われたというか、やっと光が見つかったと思いました。

自分自身も何が原因かわからないまま、いろいろな情報に踊らされて、そのたびに一気一憂して、両親も相当追い詰められていたはずです。

自立支援法を使い始める前は、医療費だけでもとんでもない額だったし(入院も繰り返していましたから)、育て方が悪かったんだと母も自分を責めていたようです。私も原因がわからないなかで両親を責めざるを得ない心理になっていた時期もありました。というか誰かのせいにしたほうが自分が楽だったんですね。ほんとうに辛い時は母と抱き合って泣いたこともあります。

リストカットもODも、しない日はないくらい、もはや日常的になっていました。

でも、双極性障害だと判明したのだから、あとはよくなる一方だったはず……。

違いました。」

               (つづく)