ある地方都市に住む37歳の女性(仮にあきこさんとする)から連絡をいただき、10年前の精神科病院入院時の話をうかがった。
介護疲れから心療内科へ
そもそもの発端は、今から15年ほど前、大学卒業と同時に始まった家族の介護――認知症の祖母と病気になった母親、2人の世話――である。
あきこさんには兄がいるが、家族で話し合った結果、あきこさんが大学卒業後は就職をせず、家で2人の世話をすることになった。22歳のときである。
介護と並行して、あきこさんは夜中の3時から昼の11時まで、コンビニでアルバイトを始めた。
20代前半の女性が、バイトと介護の日々。当時あきこさんは「これも人生だなと納得していた」という。
しかし、そのような生活を5年ほど続けた27歳のとき。
異様な心身の疲れ、極度のストレスを感じるようになった。女性専門の内科を受診し、そこが心療内科もやっていたため、診察を受けた。あきこさんは医師に、
「なんで、どうして、私ばかり介護しなきゃならないの」
そして、震える体で泣きながら医師に「介護が辛い」と訴えた。
今から思えば、それまで介護の辛さを誰にも言えず、またあきこさん自身、感情をため込んでしまう方なので、一度堰を切った訴えは、かなり強いものになってしまったのではないかと思う。
医師は県内でも有名な大きな精神科病院を紹介し、結局あきこさんはそこに入院することになったのである。
当初の診断は「心身衰弱状態」だったが、後に診断は、統合失調症、となった。そして、投薬が始まった。
統合失調症のための薬……ジプレキサ、エビリファイなど、多くの薬を試された。
しかし、どれも副作用が強く出て(飲むと3日ほどは水を飲むことも食べることもできなくなった)、飲み続けられなかったが、唯一リスパダール(液体)だけは何とか飲むことができた。
それでもリスパダール0・5mlでしばらくはベッドから起き上がることができないような状態になった。薬は飲みたくなかったが、入院をしていれば、嫌でも飲まざるをなくなる(0.5mlを1日3回)。
薬を身体に強制的に入れられるものだから、日に日に呂律は回らなくなり、母乳が出るようになり、軽度の顔面麻痺がおき、認知機能が落ち、やがて歩けなくなり、車イスの生活となった。体重も1ヵ月で20キロ増えた。
母乳は特にひどい状態で、妊娠しているわけでもないのに搾乳機で100~150ccも絞ることができたという。
「ここにいたら殺される」とあきこさんは思った。そこで、家族に一日も早く退院したいと伝え、医師に嘆願書を書いて、3ヵ月の入院予定を2ヵ月で退院した。
しかし、統合失調症という診断名の書かれた紹介状を持たされ、クリニックへの通院は続いた。そこではリスパダールからPZCに変薬され、ときには抗うつ薬などが処方されることもあった。
服薬はその後3年ほど続き、現在も頓服のような形で薬を飲むことがある。
診断への疑問
「統合失調症と診断されましたが、なぜ? と思いました。幻覚も妄想もなかったし。ただ、私は自分の感情をコントロールするのが下手です。そして、感情を溜めこんでしまうタイプ。介護によるストレスから出てきた自分の感情を医師にうまく伝えられず、それを医師は何か違ったふうに解釈したのかもしれないと考えたこともあります。それで、診断に納得できなかったので、2カ所でセカンドオピニオンを受けました」
最初の病院の意見は「うつ病」、別の病院では次のような意見だった。
「統合失調症と診断された意味がわからない。統合失調症の症状・鑑別点とされる症状がみられない」
あきこさんはあきれた。どうして医師によって観点がこんなにも違うのか……。
薬漬けになっていた身体を元の状態に戻すにはたいへんな苦労をした。薬への危機感から自発的に薬を減らしていき、つらい離脱症状も経験した。
そして、何より、精神科病院に入院した10年前から現在に至るまで、ずっと生理がないという(現在は人工的に生理を促す注射をしている)。
田舎のしきたり
あきこさんは小さい頃から「ちょっと変わった子ども」だった。集団が苦手、一人遊びが好き――人と関わってあれこれ言われるのが嫌だった。
「とにかく変わっていたんだと思います。それでかどうかわかりませんが、いろいろ陰口を言われたりしました」
周囲の人たちからは「知的障害」とか「頭がおかしい」とか……。
「人をけなすことで優位に立っているような気分になれるからでしょう」
しかし、あきこさんには目標があった。将来は医療関係の仕事につきたい。そして、大学もそうした専門の大学を選び、見事合格した。彼女のことを「知的障害」と言っていた人たちに一矢報いた気分だった。
親元を離れての学生生活。しかし、卒業を迎えたとき、祖母と母親が同時に介護が必要となり、就職をすることもなく、その役目をあきこさんが引き受けたというわけだ。
「祖母を施設に入れる、という発想は田舎にはありません。家で家の者が面倒を見るというのが美徳とされているんです。本来なら母の役目ですが病気となり、嫁の立場として母も施設には入れたくない、祖母本人も入りたくない。結局、私が面倒みるしかないです」
そこであきこさんはヘルパーの資格(2級)まで取り、お風呂の入れ方や対応の仕方を専門的に学んだという。
そして、介護と並行してのコンビニでのアルバイト。接客業ということもあり、あきこさんはバイト先にお化粧をして行った。
さっそく近所の陰口……。
田舎ではよくあることかもしれない。ちょっと目立ったり、変わっていたりすると、あれこれ言われる。介護をしている人間はもっと「それらしい格好」をしていなければならない。
車検で車をだし、代車が駐車場に停めてあると「車、買ったの?」とわざわざ家にやってきて言われる始末。過干渉。
そして、みんなと同じなければだめ、ちょっとでも変わっていると「変人」と言われてしまう。
そういう周囲からの圧迫もあきこさんを追い詰めていった。そして、精神科病院へ。
今度は親戚が黙っていなかった。何をやっているんだ。バカだ。
22歳から始まった介護、看病は10年つづいた。27歳でパンクして、32歳まで。つまり、退院後も介護は続いたのである。そして、祖母が亡くなり、母親は病気を克服して元気になった。それを契機にあきこさんは田舎をでる決心をしたのだ。
「あれやこれや、本当に田舎で暮らすのはたいへんです。こんな田舎にいたのでは壊れてしまう」
さらに、婦人科と心療内科を併設しているクリニックに通院しているとき、臨床心理士に相談をしていたが、その人からも「田舎を出た方がいいかもしれない」というアドバイスを受けていた。その意見も背中を押してくれたのだ。
就職の壁
現在、あきこさんはある地方都市で一人暮らしをしている。実家の親からは「勘当」されているような状態という。親とすれば、いい結婚をして、安定した人生を送ってほしい……それが裏切られたということなのだろう。
母親は看護師で、病後は職場に復帰したが、親戚の間では、娘に仕送りしているんだろうとの噂がもっぱら。
また、大学まで出したのに(2000万円近くかかっていると言われている)、就職することもできない。
じつは、あきこさんには夢があった。医療関係の仕事につきたい。そのため一生懸命勉強をして、専門の大学に入ったのだ。しかし、あきこさんが望む仕事は国家資格で、統合失調症の診断は欠格事項となる。
そのことが、一番彼女を苦しめている。念願だった医療従事者になれない現実を受け入れることのできない自分との葛藤……。
「精神科に入院してしまったために人生を台無しにしてしまいました。人生で華のある20代、30代を一人で悩んで苦しんで、時には白衣を着て仕事をしている人を羨ましく思いながら過ごしました」
ところが、今月の初め、ずっと通院を続けている心療内科の医師に、あきこさんは思い切って、統合失調症の診断に対する意見を聞いてみた。すると医師はこう言ってくれたという。
「この5年間、診てきたが、統合失調症の兆候、症状がまったく見られない」「最初、病院からの紹介状に統合失調症とあったが、ずっと不信を感じていた」
あきこさんはうれしそうに私に連絡をしてくれた。これで診断を覆せれば、国家試験を受けることができる……。
ところが、である。
後日、その医師に診断書に関して尋ねると、今度はこんな返事である。
「国家試験を受けるために、統合失調症診断の論破が必要なら、僕じゃなくって、精神科の先生から意見書なり診断書を書いてもらったほうがいい。僕は基本的には内科専門だから……」
あきこさんは唖然とした。裏切られたような気分にもなった。
あれほど嫌な精神科にまた行かなければならないのか……。
それでも、彼女は夢だった仕事、国家資格への挑戦のため、勇気をふるって、市内の大きな病院に電話をかけ、おおよその経緯を伝えた後、医師に面談した。医師曰く、
「一度ついてしまった診断にケチをつけることはできない」
「もうどうでもいいと思っています。診断を覆すこと、そればっかりにはまって、人生を振り回されたくありません」
10年も前についた病名、そして、その後統合失調症の薬をまったく飲んでいないにもかかわらず症状が出ていない。その経過を言ってもなお、「一度ついた診断にケチはつけられない」という現実。
統合失調症の発病率は100人に1人とされている。しかし、その数字の中には、あきこさんのようなケースもかなり含まれていると思われる。