今回は急に飛び込んできた、精神科病院での被害の報告である。

 彼は現在37歳。仮に、M男さんとする。

 M男さんは、以前このブログに公開した「ヘンリーさん」の事例を読み、私にメールを寄せてくれた。自分も同様の経験をした、と言って。


まずM男さんからのメールを紹介する。

「聞いてもらえる事などあり得ないと思っていたので、カコさんの言葉が嬉しいです。ありがとうございます。

正直、感情が高ぶってしまい何をどう文章にしていいか分かりません。

拉致された事も監禁された事も忘れようと努力したんですが、無理でした。

悔しくて悲しくて思い出すだけで涙が出ます。

白衣や病院の看板を見るだけで怖くて震えが止まらなくなった事も一度だけではありませんでした。

拉致されたのは合計で4回あります。」


4回も拉致されて、病院に入れられた?

にわかには信じがたかった。



両親との軋轢から

最初の「拉致」は今から20年前である。

1992年の8月11日。

 当時、M男さんは高校を中退し、いわゆるヘビーメタルの音楽にのめり込んでいた。そして、親友と本格的にバンドをやろうと話し合っているときだった。アルバイトはしていた。夜勤の仕事で、どうしても生活は昼夜逆転になる。

 その日も、仕事を終えて、朝、布団の中にいた。


その時の様子をM男さんはこう書いている。

「ドタバタと階段をかけ上がる音がしたので、何事だろう…? と思った瞬間、部屋のドアが開けられ、見たことのない男二人と両親、父方の叔母が部屋に入ってきました。

「〇〇(本名)だな? 病院へ行くから用意しろ!」

意味が分かりません。

着替えも出来ず、風呂に入るのも許されず車に乗せられました。

精神病院へ連れていかれるんだと気付いたのは、病院へ着く直前です。

それでも、そのときはまだ無知だったので、事情を医者に話せば何とかなると思っていました。

病院へ着いたのが12時過ぎ。なぜ、この時間を覚えているかというと、ふと見たテレビで「笑っていいとも」をやっていたからです。

30分くらい待たされ、診察室に通されました。

医者の態度はまさに取り調べ状態。

名前は? 生まれは?

一方的に質問をされ、「意味が分からない」と主張するも、

「人がいないのに人の声が聞こえるだろ?」だの、ふと右の方を見たら、「そっちに何が見えてるんだ?」と一方的にまくし立て、まったく会話になりませんでした。

……で、最後の言葉が「入院だ! 連れていけ!!」

「???」

後ろを振り向くと看護師2人がいました。

捕らえられた宇宙人のように、両脇を抱えられ、薄暗い病棟を歩かされた時は、両親と叔母に向かって「裏切者! 覚えてやがれ!!」と言うのが精一杯でした。

ナースステーション経由で保護室という名の独房に入れられ放心状態に…。

「一体どうなるんだ?」

「何なんだ? これは!」

時計もないし、場所も分からない。

絶望…。この言葉は精神病院の為にあるんだと実感しました。」



その後、M男さんはいかなる説明も受けないまま、隔離室に丸2日間入れられていた。

目の前には鉄格子、トイレからは夏ということもありものすごい異臭が漂ってきた。食事は小窓から差し入れられたが、とても食べる気になれない。

一度ケースワーカーがやってきて「調子は?」と尋ねられた。

「意味がわからない」と答えると、

「おまえが病気だからわからないんだ」

 そして、ここが精神科の病院であること、入院生活におけるルールなどについてしゃべっていった。


 それにしてもなぜ、こんなことになったのか。

 M男さんの父親は高校の英語の教師である。そして、音楽と言えばクラシックしか認めない。小さい頃から、強圧的で、子どもを自分の思うようにしたがる傾向があった、とM男さんは言う。

「音楽=クラッシックの両親はメタルにはまったことも含め、僕のことが気に入らなかったんでしょう」

 暴力はもちろん暴言を吐くこともなかったという。ただ、学校になじめず、高校を中退し、ヘビーメタルにはまっていった息子のことが両親は気に入らなかった……。

 実は、この事件が起きる少し前、母親から「病院に行かないか?」とM男さんは言われていた。意味がわからず、「行かない」とだけ答えていたが、「拉致」されてワンボックスカーに乗せられながら、ふと、そのときの母親の言葉がよみがえった。



 隔離室を出た後は、畳部屋の閉鎖病棟に移され、血液検査だの心理検査だの、さまざまな検査を受けた。薬は、飲んでも飲まなくてもいいと言われた。

 閉鎖病棟にはクーラーがなく、とにかく暑くて眠れない、食欲もない。そして、なんといっても病院内の雰囲気にM男さんは恐怖を抱いた。暗い上に、入院患者たちの生気のない様子、彼には、「ゾンビ」のように見えた。これが精神病院というところか……。

 17歳の少年にとって、それは恐怖以外の何ものでもない体験だっただろう。

「やばいとしか思いませんでした。とにかく、ここから出ないと、殺されると」

 その後、開放病棟に移り、2度の外泊を挟んで、退院したのは11月。

結局、M男さんがどんな「精神疾患」で強制的に入院させられたのか、診断名はいっさい明かされないまま、また、さまざまな検査をしたが、その結果も何一つ知らされないまま、とにかく3ヶ月間の入院生活だった。

 外泊のときは、両親に対して抱いていた感情は押し殺した。それを出してしまったら、またやられると思ったからだ。

 しかし、退院したものの、そのときの体験はM男さんに大きなダメージを与えた。

「何を見ても、まったくやる気が起きない。人の顔を見たくない。人間不信に陥りました」

 それでも親身になってくれる友だちもいて、M男さんは少しずつ立ち直っていった。



2回目の「拉致」――H病院

 2回目の「拉致」は3年後である。

 その少し前のこと、音楽で知り合った女友だちをM男さんは自宅に連れてきて、音楽の話をしていた。ただそれだけのことだったが、両親は彼のことを「色摩」のような言い方をして責め、いくら説明しても、まったく聞く耳を持ってくれなかった。

「もしかしたら、これは、また、やばいことになりそうだ」

 両親の態度に直感したが、そのM男さんの予感は的中した。

 それからしばらくして、彼は父親が電話で誰かと話しているのを耳にした。

「相変わらずですよ」

「予定通りで……」

 そんなことを言っていたが、そのときは意味がわからないまま――翌日のことである。

 階下でタバコを吸っていると、可愛がっている飼い犬の異様な啼き声で異変を知った。

 気がついたときには、男2人がやってきて

「行くから、準備しろ」と言い、やられたと思ったが、もうどうにもならない。

 両脇からはがいじめにされ、M男さんが何を言っても一言も言葉を発しない。

「そのときの男の半笑いの顔、今でもはっきり覚えています」

「拉致」したのは、病院と契約している警備会社の人間である。○○警備保障――精神科病院への「運び屋」という仕事を担っているところもあるのだ。

 連れ去られるパターンは以前とほとんど同じで、病院に着くとそのまま診察室へ通された。

そして医師が、「ここは、精神科なんだけど、どうして連れてこられたかわかるか?」と問うので、「はあ?」と言うと、「入院する気、ある?」。M男さんはきっぱり「ない」と答えた。

 しかし、これは失敗だった。任意入院が医療保護入院になってしまったのである。

 入れられた病院は都下のH病院。いろいろな意味で有名な病院だった。

 このときは隔離室に入れられることはなかった。しかし、規則ががんじがらめで、たとえば外出願いを出すと、1週間後、許可された人の名前が貼りだされる。名前のない人に対して、なぜ外出が許されないのか、説明はいっさいない。病院側のやり方を患者はただ甘受するしかないのである。

「こんなことってありますか。こっちは罪を犯したわけでもなんでもないのに……」

 服薬に関しても厳格だった。一列に並ばされ、口に薬を入れられる。

 ある人が「薬は嫌だ」と主張したところ、「拒薬だ!」と言って看護師がどこかへ電話をすると、体格のいい看護師が数人現れ、その人を抑えつけて無理やり薬を飲ませる光景をM男さんは見た。

 それでも彼は、薬は絶対に飲みたくなかったので、見つからないよう、できるだけ薬を吐き捨てるようにしていたという。



脱走、そして懲罰

 ある日のことである。M男さんは検査を受けるということで病室を出された。そして、検査室へ向かう途中、看護師のすきを見て、病院から逃げ出したのである。

近くの川沿いを走り続けたが、お金を一銭も持っていない。とりあえず、友だちの家までいき、ご飯を食べさせてもらったが、そんなことを何日も続けているわけにもいかなかった。

「それで仕方なく、家に帰って、両親に何とか病院から出してくれと頼んだんですが……」

 結局、またしても業者を呼ばれた。そのとき、男たちがこれ見よがしに拘束帯を手でポンポン叩きながら、M男さんに近づいてきた。そのときの恐怖は、今でも鮮明に覚えている。

結局、同じH病院に連れもどされ、今度は隔離室に入れられた。

じつに、8ヶ月ものあいだ。最後の3ヵ月間は、両手両足を拘束された状態だった。

そのとき彼はまだ20歳である。20歳の青年を、いかなる精神疾患の病名もないままに、8ヶ月ものあいだ、保護室という独房に「監禁」する……。

話を聞いたとき、私は『パピヨン』という映画を思い出していた。脱獄を企てては捉えられ、独房にぶち込まれるスティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマン。

しかし、ここは病院である。M男さんは犯罪者ではない。

明らかにこれは、病院を抜け出したM男さんに対する懲罰である。病院が患者に懲罰を課しているのである。

「縛られているときは、よく同じ夢を見ました。飼い犬が出てきて、踏切の向こうで僕が来るのを待っている。でも、僕は縛られていて、どうしても犬のほうへいくことができない、体が動かない……いつもそこで目が覚めるんです」

自由になれる時間は日に15分ほどだった。結局、8ヶ月ものあいだ狭い保護室に入れられていたM男さんは歩行困難となり、車イスを使うことになった。薬も、どんな薬かわからないまま飲まざるを得なかった。

「このときのことを思うと、本当によく生還できたと思います。ラジオを聞くことだけはできたんですが、ラジオではちょうど新しいウインドウズが発売されるとかで大騒ぎしていて、いろいろなニュースも入ってきて、壁一枚の向こうにはそういう自由な世界があるのに、なんで俺はって。そういうギャップがすごくつらかった。もしかしたら、一生ここで……そんなことも頭をよぎりました。怖くて、理不尽で。いっそのこと、殺してくれと思いました。生まれて初めて、死ぬことばかり考えていました」

                           (つづく)