精神医療について書くときにいつも戸惑いを感じるのは、どの話題を語るにしても、常に「但し書き」のようなものがついて回るということだ。

例えば、前回のエントリで「断薬」のケースを紹介したが、これは「精神薬は悪であるから、どの人も即座にすべて断薬しなければならない」というメッセージでは決してないつもりである。

私の立場は薬全否定ではないということだ。

が、こうした記事を読み、その中に自分が飲んでいる薬が含まれていたりすると、ひどくうろたえて、「ならば自分も即やめなければ」と、自己判断で安易にばっさり薬を切ってしまう人がいる(かもしれない)。

薬をやめた方がいい人というのは、もともとその薬を必要としていなかった人のことである。つまり、根本に、間違った診断と処方があるということだ。

そして、その数が圧倒的に多いという現実があり、このブログはその前提のもとに書かれている。

だから、常に「但し書き」を書くことなく、そうした前提で薬について――したがって、書かれることはどうしても薬批判という流れになるわけだが――語っている。しかし、もちろん、適正な量の薬を必要とし、それで状態が安定している人がいるというのも、もう一方の現実であり、そういう人にまで、何がなんでも薬は悪いので「断薬」した方がいいと勧めるために、私はこのブログを書いているわけではない。


では、薬が必要な人とそうでない人との線引きは、どこにあるのか?

この線引きの一方への拡大、例えばうつ病ならうつ病というものの拡大解釈――別の言い方をすれば、線引きの恣意的な操作こそが、現在の精神医療のおおもとの問題であり、精神医療の混乱、荒廃をもたらした原因であろうと思う。


「但し書き」という点について言えばもうひとつ。

精神科医について批判的なことを書くと、決まって「いい医者もいる」という反論がある。その点も、私は常に「但し書き」を添えることなく、批判的な物言いをしてきたが、「いい医者もいる」という「もう一方の現実」があることはわかっている。

「いい医者」と「腕の確かな医者」というのは別物だと思うが、後者にしぼって考えた場合、日本に1万2000人ほどいるといわれる精神科医のうち、「腕の確かない精神科医」がどれほどいるのだろうか?

 そして、本当に薬を必要とする人と、本来なら薬を必要としないにもかかわらず、安易に薬を処方されている人(しかも多剤大量に)の割合はどうか……?


 笠陽一郎医師によると、うつ病と言われて薬物治療を受けている人100人の中で、本当に薬が必要な人は1人という割合である。

 しかし、ゼロではないということ。そして、そういう人に対して断薬を勧めているのではなく、

 私が語っているのは、その圧倒的な数の方についてなのだ。

(おそらく)圧倒的に数の多い「腕の不確かな医師」によって、薬を必要とする人と、必要としない人の線引きが誤られ――というか、恣意的な操作を鵜呑みにしているだけかもしれない――が、それも腕が不確かな証拠とも言えるわけだが――、薬が必要でないにもかかわらず「うつ病」や「統合失調症」と診断されている人。圧倒的な数の「腕の不確かな医師」によって作り出されている圧倒的な数の薬を必要としない「患者」たち。


例えば、今朝もNHKの朝の番組『あさイチ』で、「うつ病を治せ」と題して――内容は、「薬だけに頼らない」治療法として、集団認知行動療法が紹介されていたが――それはまあいいとしても、うつ病という病気を説明するところで、相も変わらず「うつ病は誰でもなる病気」で、日本人の15人に1人は、一生涯のうちにうつ病になると言われているとか、たった6項目のチェックリスト(気分が沈むとか、集中できずにイライラするとか、よくある項目)をもってきて、こうした症状が2週間以上続いたらあなたも「うつ病」かもしれないとか……。

こうした安易なうつ病の理解の仕方をして、それを啓蒙的に国民に吹聴してしまうことの弊害を、NHKはまったく理解していない。

そうした情報によって、薬の必要でない人たちが、腕の不確かな医師のもと、不必要な薬を処方され、もともとうつ病でないのだから、薬の効果もなく、したがって症状の改善もないために、診断の見直しをされるどころかかえって薬をどんどん増やされてしまうというパターン。

こうした人たちこそ断薬は必要であり、そのことによって症状(というか副作用による症状)は、当然のことながら改善する。

つまり、こうしたケースは医原病であり、薬原病であり、私が取り上げたいのは、まさにこの問題なのだ。


番組に出演していた42歳の男性は、職場のストレスが原因で、6年前うつ病と診断され、ずっと5種類の薬を飲み続けていたが改善せず、4年前に退職。今回この集団認知行動療法を受けることになったという。ただし、指導している精神科医によると、服薬は続けながらだ。

6年間も抗うつ薬を飲み続けて、症状の改善がないのに、なぜ「うつ病」という診断を見直そうとしないのだろう。相変わらず彼は「うつ病患者」として、薬を飲みながら、この集団認知行動療法を受けているところに、違和感を覚えた。


生きるのが下手な人というのがいる。当然のことながら、いつも生きにくさを感じている。

私自身にしたところで、とてもじゃないが、「生き上手」とは言いがたい。ずっと家族間の問題を抱えていた(る?)、いわゆるACだし(初告白だが、そのことはまた別の機会に)、そのことによって、世間の荒波をすいすい泳いで(いたら、今頃ベストセラー作家である?)いくことも難しく、物事へのこだわりが強く、ネガティブな考え方が基本にあるから、何かを信じて積極的に前進できる人が、私は羨ましくて仕方がなかった。

何をやってもうまくいかない(と自分では思い込んでいる)。集団になじめず、そのことで「自分勝手」と言われてしまう。場の空気が読めず、いつも浮いてしまう人。話すのが苦手で、自己表現が下手な人。自己イメージと現実の自分とのギャップに苦しむ人。こだわりが強くて、融通のきかない人。ある種のものへの過敏性があり、そのことで生きづらさを感じている人。じっとしていられずに何でもすぐ行動に移して、結果あちこちで衝突を繰り返す人。オールオアナッシングの考え方の強い人……。

昔だったら、おそらくそういう人たちにも、ちゃんと生きていける場や職業はあったと思う。しかし、今の日本の、ましてこんな景気の時代、みんなと同じことが同じようにできなければ、周囲から浮いてしまい、居場所も狭められ、それによってストレスもたまって、結果、気分が落ち込み、やる気も失せるというのは、人間なら当然の成り行きだ。

学生時代、あるいはそれ以降に出会った多くの知り合いの中にもこういう人は幾人かいた。あのころは、精神医療のことも知らず、自分のことは棚にあげて、そうした人に対して「社会に出たら苦労するかもしれない」と感じたり、「これではみんなに嫌われてしまうのに」と密かに思ったりしていたが、そういう人たちの抱える「生きづらさ」のようなものが、結局、精神医療へと流れていき、安易に「うつ病」などと診断されて、薬の被害にあう結果となる……

今の精神医療の被害の何割かは、だいたいこういう構造なのではないかと思う。

そして、こうした問題と、本来の「うつ病」とは、まったく別物である。

と同時に、当然のことながら、薬というもののとらえ方も、まったく別物である必要があるということだ。


数十年前、精神科医が従来の「うつ病」だけを対象に治療をしていた時代と、今の状況――その活況、患者数と経済的効果――とは、まさに雲泥の差である。

薬が必要な人にだけ薬を使っていたのでは、もうかるはずがない。

医学的には必要でない、上記のような人たちをとりこんでこその現在の活況であることを思えば、その陰にどんな力が働いているのか、だいたいの予想はつく。

このブログは、そのことを強調せんがための「反精神医学」的発言である。

そして、その発言で、ほとんどのケースがカバーできてしまうという現実。これまで書いてきた抗うつ薬の弊害の多さは、いかに「うつ病」でない人たちへの投薬が多くを占めていたかを物語っている。減薬、断薬を呼び掛けるのは、そういう大勢に対してである。

それでも、やはり薬の必要な人はいる――と書くと、今度はまた別の意味で心配なのは、せっかく減薬してきた人が、離脱の苦しさから、やはり自分は薬が必要なのかもしれないと考えて、減薬を放棄してしまうことだ。現にそういうことを言う人もいた。

さらにもう一つ、気をつけてもらいたいのは、ブログで減薬、断薬の記事が多いからといって、「一気にばっさり」はやめてほしい。離脱症状にとどまらず、悪性症候群をおこしたら、生命の危険がある。

その意味でも向精神薬は心身への影響が、使い方によって破壊的にもなるものなのだから、本来なら「腕の不確かな医師」に任せておける代物ではないのだ。