こうしたブログをやっているといろいろなことがある(じつにいろいろなことが)。

前回の「香織さん」のように、8年間もの薬漬けの状態を経て、ついに自分の人生を取り戻すことができた例に出会うこともできた。そして、それを自分のことように感じて「おめでとう」というコメントを入れてくれる人たちの存在も知った(実は、香織さんからもメールをいただき、コメントは本当にうれしかった、ありがとうございます、というお礼の言葉をいただいています。)

あるいは、日々、離脱症状に苦しむ人の存在、減薬中の経過報告をしてくれる人……。

正直、私は具体的なことは何もできないが、それをわかっていてもなお、コンタクトを取りたいと願う人が絶えないのは、おそらく、これまで自分の経験したことを理解されることがほとんどなく、ずっと孤立していた人が大勢いるからだろうと思う。

かと思えば、嫌がらせのようなコメントをいただくこともある。私はコメントは承認制にしているので、公開していないが、たとえば数週間前についたコメントはこんな感じ。


「偽善者
被害者でも被害者遺族でもないくせにこんな活動しやがって。

あんたみたいなのがいるから更に傷付く人間が増えるんだよ。

こんな中途半端な活動止めろ迷惑だ。」


 

まあ、世の中にはいろいろな人がいるし、いろいろな意見があっていいと思うので、こういうコメントにもそんなに腹はたたないし、放っておいてもいいのだが、「偽善者」というのはちょっと違うような気がしている。

私は何も「善」を行っているつもりはまったくない。

「被害者でも被害者遺族でもない」立場から、この精神医療の問題をいろいろ調べ(主に体験談から)、その実態をある程度知ったうえで、「これ、やっぱりおかしいんじゃないの?」という素人の、まったく素朴な疑問から、この活動をやっているだけである。

それを「偽善」というのなら、それはそれでかなわない。

また、「中途半端な活動」というのは――確かに、その通り、かもしれない。

被害の話を聞いても、医療的にその人を救えるわけでもなく、裁判に打って出ようと、その方策なり知識をもっているわけでもなく、つまり、私は何も解決策を持っていないのだから。

そして、私にいろいろ話を語ってくれるほとんどの人も、私にそれを要求することなく、ただひたすら「伝えてくれる」だけである。



それでも、以前、話をうかがった女性(離脱症状を何とか乗り越え、以前の生活を取り戻しつつある)が、その後メールでこんなふうに言ってくれた。

「自分が体験したことは、もう忘れてもいいんだと思えるようになりました。これまでは、どんなことが自分の身に起こったのか、忘れないようにするため、いつも自分の中で反芻していたことも、かこさんのブログに全部書いてある。もし、思い出したくなったら、それを見ればいいのだから、もう頭の中からこの経験は消してしまってもいいんだと、そんなふうに思ったら、すごく気持ちが楽になりました」


これを読んだとき、私は自分のブログも、「記憶の格納庫」としての役割くらいは果たしているのかもしれないなあ、と思ったものだ。



ブログを始めた当初の思いは、精神医療の抱える問題があまりに大きいにもかかわらず、世間にほとんど知られていないことへの違和感(危機意識というより違和感の方が強かった)から、まずは事実の「掘り起こし」を目指したつもりだ。

当時の気持ちは、エントリとして、「当事者であるということ」

http://ameblo.jp/momo-kako/entry-10609921941.html

その中で、経済評論家の内橋克人氏の言葉を挙げたことがある。

内橋氏は、日本という国は、水俣病や、アスベストの問題、C型肝炎の問題などを見てもわかるが、その被害が甚大になり、被害者の数も増え、こらえにこらえてきたものが、いよいよ我慢の限界を超えたとき初めてそれが「社会問題化」すると指摘している。

つまり、弱い立場の当事者が声を挙げない限り、そして、その数(被害者の数ではなく、声を挙げる人の数)が溢れるほどにならない限り、それは社会問題として認知されない……。被害者が黙っている限り、何も事件は起こっていないということだ。

精神医療の問題はまさにこれに当てはまると当時は感じ、とにかくこの問題を「社会問題化」させたいと、その思いでやってきた。

結果、多くの話を聞くことができ、それは紛れもない「被害の事実」としてここにある。

少し前なら、こうした話も「ネットの世界の中だけのこと」という切り捨てられ方をされていたが、今はそんな言い逃れはできないと思う。

テレビ番組で取り上げられ、雑誌にも特集が組まれ、盤石だったはずの精神医療という地盤が少しずつほころびを現わしはじめて、その隙間から被害者の叫び声が漏れ聞こえるようになってきた。

泣き寝入りしかないとあきらめていたことも、声を挙げていいのだと思える風潮は、この問題においてはかなりの前進であると思う。

そして、何も具体的なことはできないが、ここが、精神医療の地盤を揺るがすための、「声の集積」の場になればと、そんなつもりでやっている。



しかし、声を挙げる人が多少なりとも出てきているにもかかわらず、相も変わらぬ睡眠キャンペーン、早期介入……おそらくそれは、こうした精神医療の実態と、「よきこと」として進められているキャンペーンが直結して世間に伝わっていないからだろうと思う。と同時に、それはある意味、政策を推し進める側の戦略でもあるに違いない。

「うつは心の風邪」のうたい文句によって気軽に精神科を受診した結果の被害の多さ、富士市の例のように、睡眠キャンペーンによって自殺者が逆に増加してしまったという事実、早期介入によってちょっとしたことから精神科につながれた結果の痛ましいばかりの子供の被害……。

そうした被害がかなりの範囲で広がって、深度を増して、器から水が溢れるようになって、ようやく社会に認知されるのだとしたら、やはり、これまで以上に当事者の声を拾い続けていくしかないのだと思う。

以前、そうした私のやり方を「弱い」と批判した人がいた。

しかし、受け皿があるから、吐き出そうという人も出てくるのだと思っている。たとえ解決策はなくとも、話してもらわない限り、この被害そのものは存在さえしないことになってしまうのだから。

「受け皿」「声の集積」――とにかく今は、それでいいと考えている。いつか、きっと、それが大きな力になると信じて。