昨日(9月29日)の読売新聞夕刊に、悲しい記事が載っていた。

「仮設」女性 突然の自殺。


3月11日の東日本大地震で大きな被害を受けた岩手県釜石市で、8月20日、仮設住宅に暮らす54歳の女性が、自ら海に入って亡くなったという。

あの日せっかく逃れた海に、5カ月後に入水自殺……。

女性は夫と20歳の長男、夫の両親の5人暮らしだった。津波で自宅は破壊され、当時、女性と一緒に自宅にいた寝たきりの義父(97)が流されて亡くなった。

家族は避難所の体育館で暮らし、7月中旬に仮設住宅に入居。

自殺はその後、わずか1カ月後のことだった。



記事の中で気になるのは、女性が4ヵ月の避難所生活で不眠となり、体調を崩していたということだ。

岩手県は、昨年2010年の自殺死亡率が全国でワースト2位だったこともあり、大震災をうけてこの6月に県自殺対策本部を設置している。そのなかで、釜石市をはじめ、数か所の自治体には、医師や保険師らが精神面の相談を受け付ける拠点が設置され、「心のケア」にとくに励んでいるところでもあった。

したがって、不眠を訴えるこの54歳の女性も、そうした「心のケア」を受けていたと思われるが、それがいったいどのようなものであったか……。

避難所で生活を送っているとき、女性は食事の配膳係を務めるなど多忙な生活を送り、日記代わりにつけていた家計簿の4、5月の欄は予定で埋まっていたという。しかし、仮設住宅に移ってからの8月は予定もなく空白だった。

夫はその頃、女性が「じいさま、なして助けられなかったのか」とよく口にしていたのを覚えている。

「妻は、仮設住宅に入って時間ができて、やることもなくなり、自分を責めるようになったのかもしれない」

 そして、家計簿には遺書のような書置きがあった。

「……子供の能力しかなくなった。本当に長い間お世話になりました。ごめんなさい。」



 気になるのは「子供の能力しかなくなった」という部分である。

 それがどういうことを意味しているのか……。

仮設住宅に移った直後、女性は「やっとほっとできた」と笑顔を見せることもあったが、それもつかの間、口数が少なくなり、人に会うのを嫌がるようになっていったという。そのことと、「子供の能力しかなくなった」ということは結びつかない。「子供の能力しかなくなった」とは……想像をたくましくすれば、さまざまなことが考えられる。

 


記事の最後に、阪神淡路大震災で被災者の心のケアにあたったという岩井圭司・兵庫教育大教授(精神医学)は次のように言っている。

「仮設住宅で最低限の環境が確保されて落ち着くと、入居者が自分の将来について悩んだり、孤独感に襲われたりすることがある。行政や民間の支援団体などは、入居者に『あなたのことを気にかけている』というメッセージを発信することが重要だ」

 言われていることは確かにその通りと思う。

 しかし、阪神淡路大震災で被災者の心のケアにあたった岩井圭司氏である。氏に関しては多少のことは知っている。

 また、読者の方から、自分を薬漬けにした主治医が被災地に入ったというニュースを聞いて、とても嫌な気持ちになったという話も聞く。



 以前にも書いたが「心のケア」という、あまりに重い現実に対して、あまりに安易な匂いのするこの言葉の裏で、安易な使われ方をするのに見合う安易な投薬が行われている実態を考えれば、この54歳の女性の自殺も、一安心したところでふっと心に空白ができたためとだけは言えない(もちろんそれが一つの引き金ではあるだろうが)、別の側面も考えてみるべきだろう。

 もちろん、何でもかでも「薬」のせい、などとは言っていない。そうした考え方をすること自体、向精神薬への問題をさらに世間から遠ざけてしまいかねない危険性を孕んでいる。

 しかし、向精神薬には「治療」とはかけ離れた別の側面があるのもまた確かなことだ。

 そうした側面をどのメディアも取り上げず、その視点さえまったく持たないまま、どんどん別の方向に流れていってしまう「心のケア」。

この美辞麗句のもとに処方される向精神薬の持つ他の側面を無視して、こうした自殺を受けて、これからさらなる「心のケア」が熱心に行われかねない現状をいったいどうすればいいのだろう。