(1からのつづき)

第二の監禁

 T病院に到着すると、姉夫婦が待ち構えていた。拘束された状態で、川崎さんは姉と言葉を交わすこともままならなかった。

 そして院長(Y・Y)の診察を受けたが、Y・Yは彼女をろくに診察せず、一方的にこう告げた。

子供さん、大きくなるまで入院しとこね、納得してないようやから、医療保護入院ね

 そうやって何が何だかわからないまま、川崎さんはまたしても閉鎖病棟に入院することになったのである。

 いったいなぜこんなことが起こり得るのだろう。

 川崎さんの話を聞いていて、私は信じ難い気持ちと、いかなる落ち度もない人間をこうして「拉致監禁」できるシステムに背筋の寒くなる思いを禁じ得なかった。

 何気ない行為を「虐待」と決め付けられ、行政の福祉や保険師までもが一緒になって、さらには肉親まで巻き込んで、1人の人間を精神病院へと送り込む。しかも、すべて、本人をだましながらの行いである。そこに川崎さんのいかなる意思もまったく反映されていない。

 これは、いったい、何なのだろう?

 ちなみに川崎さんについた病名は「アスペルガー発達障害」である。でっち上げられた子供虐待からさらにでっち上げられた病名――ある意味でどのような人間にでもつけることのできる「病名」である。


退院請求却下

 Y・Y院長の診察は月に一度あるかないかだった。川崎さんとしては何としても早く退院し、子供を引き取らねばの思いだったが、診察がないので院長に訴えることさえできない。

 しかも、院長は「病気と認めなければ退院させない」「病気と認めなければ子供を返さない」という脅迫的態度である。

 そこで川崎さんは「退院請求」を県の精神保健センターに提出した。しかし、一ヵ月半後に寄せられた回答(手紙)は「入院の必要あり」というものだった。

 落胆したものの、川崎さんは精神保健センターに電話を入れ、なぜ入院が必要であるかと問いただした。保健センターの担当者の答えは、

「Y・Y院長とあまり話をしていないから」

「話をするもしないも、院長は私のところに診察に月に一度来るか来ないかの状態なので、話のつけようがありません」

 さらに川崎さんは「娘と会うこともですが、免許証の更新、公務員試験の受験など、しなくてはいけなかった権利が奪われています。これらの責任はどう取ってくださるのでしょうか? 障害者にさせられたとしても、今のように拘束、監禁までされる必要があるのでしょうか?」

 と問い詰めたが、担当者は、「そういうことは私たちに言われてもわかりません。人権擁護の人とか言ったらいいんじゃないですか」と何とも無責任な対応だった。

 川崎さんとすれば、いったい何のための精神保健センターなのか、との思いが強まった。

ちなみに、あとでわかったことだが、Y・Y院長はこの精神保健センターの委員をしている。

 そして、同病院の別の医師からはこんな話も聞いた。

「精神保健センターに退院請求を出して退院できた人など2%にも満たない。病気でもないのに、病気と認めさせられる、結局そういうことになるためだけのところだよ」と。


 

児童相談所・福祉事務所と病院とのつながり

 ちょうどその頃のことだが、児童相談所の職員と例のM主査が川崎さんに会いに病院にやってきた。目的は娘の乳児院への入所を承諾させるためである。拘束されている川崎さんは、職員によって無理やり応接室のようなところに連れていかれた。

 応接室に入ると、まず児童相談所の職員が黄色い紙を川崎さんの前に差し出し、サインを求めた。そこには「○○乳児院への入所を承諾します」と書いてある。

しかし、そのとき、黄色い紙は下の部分が折り曲げられていた。川崎さんはそのことに気づかないまま、仕方なくサインをし、サインし終わってから職員が折ってあった紙を開いた。そこには「何があろうと、児童相談所の指示に従います」というようなことが書かれてあったのだ。

 児童相談所の職員とM主査はその後も川崎さんの元を訪れている。(2003年9月頃)

二度目にやってきたときM主査は川崎さんにこう言った。

子育て訓練のために、○○市中央福祉事務所の支援室5階に、週に一回私に会いに来なさい。会いに来ることこそが子育て訓練になるのだから

 さらに脅迫するように、

それをしなければ、娘さんをお返しするのは遅くなる」と。

 M主査に会うことが子育ての訓練になるというが、この人は母乳で育てたいという川崎さんに「母乳なんか捨てればいい」と吐き捨てるように言った人である。

 あまりの言い様、そしてこの人が自分を精神科につないだ張本人だとの思いから、川崎さんは胸が悪くなり、許可を得て、その場を退席した。

 さすがに同情する看護師もいて(M主査は看護師たちにはあまり評判がよくないらしかった)、それ以後、看護師がM主査を川崎さんに会わせないようにしてくれたのか、M主査に会うことはなかった。


退院までの道のり

 精神保健センターへの退院請求が却下されたことで、川崎さんは、「これは主治医を変えるしかない」と考え、看護師に何度も何度もお願いした。T 病院では患者の意思で主治医を変えてくれることはほとんどない。相性が合おうが合うまいが、そんなことは病院にしてみればどうでもいいことだからだろう。

 主治医を変えてほしいという話がY・Y院長の耳に入っても、院長は自分が診ると言い続けた。

 それでも川崎さんは諦めず、看護師に冷静な態度で訴えた。診察をしてくれない院長を信頼できないこと、だから自分は主治医を変えてほしいとこれからも主張し続けるが、こういう状態は自分だけでなく病院側にとっても不幸なことではないだろうか。それとも金儲けのために主治医をそのままにして入院を延長させるつもりか……。

「とくかく、いつも報告しているところに報告させていただきます」と、例の支援団体の存在をほのめかせると、ようやく主治医が変わることになった。

 新しい主治医はF医師。この医師は、ほとんどの患者を3ヵ月ほどで退院させることがわかっていた。ようやく川崎さんにも光が見え始めた。


 一度、川崎さんはH医師にこう尋ねたことがある。

「アスペルガー発達障害はどうやったら治るんですか?」

 医師はこう答えたという。

「先生にも難しい病気なんだよ」

 結局、この病名を付けられてから、川崎さんはアスペルガー発達障害について医師からいかなる説明も一切受けておらず、ただその病名だけが彼女の前に差し出された格好である。


退院

 主治医がH医師に変わってからおよそ3ヶ月後の12月4日(本当に3ヵ月で)川崎さんは退院することができた。

 最初の入院から約半年が過ぎていた。その間、何度か病棟は変わったが、結局、閉鎖病棟から出ることはなかったのである。

 アスペルガー発達障害という病名で、いかなる病状もなく、不穏な状態でもない患者をなぜ半年ものあいだ閉鎖病棟に「隔離」しておく必要があったのか……。

 あえて言うまでもないと思うが、私は川崎さんと実際お会いし、彼女の「普通さ加減」を肌で感じた。それどころか、喫茶店での話が終わったとき、ちょっと私が席を外したすきに、飲み物の代金を素早く支払い、お礼を言う私に、「こちらこそ、ありがとうございます」と礼儀正しく頭を下げたこの人のどこが「病気」だというのだろう。

 出産前はバスガイドとして全国を飛び回り、それなりの収入も得ていて立派に自立していた人である。

 そんな人がなぜ、産んだばかりの我が子と引き離され、精神病院に「監禁」されなければならないのか……。


 しかし、川崎さんと娘の話はこれで終わらない。

 病院を出たあと、ケースワーカーと共に乳児院に娘に会いにいったが、結局、川崎さんはその後4年間、娘と一緒に暮らすことはできなかったのである。

 何度も返してほしいと訴えた。が、「あなたは病気だから、きちんと育児ができない」だから返せないということらしかった。病気だから、育児がぎこちない。あなたの歩く姿を見ていても、なんとなくぎこちない感じがする……。

 何もかもが言いがかりである。そんな理由にもなっていない理由で、4年ものあいだ、母子は引き裂かれたのである。

当時川崎さんの自宅は乳児院から1駅離れたところにあったので、乳児院の近くに引っ越した。そして、毎日乳児院に通って、なんとか娘との絆をつなぎとめ続けたのだ。

(この問題は別のエントリとして、以後も続きます)。