昨日の記事に対して、さまざまなコメントをいただきました。

みなさん、ありがとうございます。

また、コメントとは別にメールもいただきました。



そのことについてちょっと考えてみました。興味のない方はスルーしてください。



ブログを読まれた方がどのような感想を持たれるか、書いた側にしかいることのできない(また当事者でもない)私は、正直、わかりません。

そのうえで、「気分が悪くなる」「辛くなる」という感想をいただき、「ああ、そうなのか」と半分は納得し、半分はそれでも少し意外でした。

それで、何に対して「気分が悪くなる」のか考えてみました。

ひとつには、私の書いたものが「精神医療全否定」「薬全否定」「精神科医攻撃」と受け取られたからではないかと思います。

だとしたら、はっきりさせておいたほうがいいと思いますので、お答えします。

私は精神医療を全否定しているわけでも、薬を全否定しているわけでも、精神科医を全面的に攻撃しているわけでもありません。

しかし、何かひとつのせいではないにしても、今現在行われている多くの精神医療はやはりどう考えてもおかしいのです。これは間違いのないことです。そして、私の出発点はここにあります。

医療のはずが、実際は患者の命を非常に危険にさらしている、その事実と、精神医療および精神科医はきちんと向き合わなければなりません。

そして、どちらに振れているのかわかりませんが、片方に大きく振れてしまった振り子を少しでも戻すには、強い言葉が必要だと思うのです。中庸で、バランスのとれた言葉でどうにかなるほど、現状は平和なものではありません。




ある主張をすれば、必ずそれを否定する意見もでます。

いい医師もいる。薬が必要なときもある。にもかかわらず、私の書く意見が精神医療に「否定的なものばかり」、だから、気分が悪くなったり、辛くなったりするのでしょう。

しかし、ここで一つお断りしておきますが、私はなにも読まれた方を「いい気分にさせる目的で」このブログをやっているわけではないのです。希望が書いてないのも事実です。

精神医療における被害の当事者でない私は、実際被害に会われた方の声を中心にこのブログを運営してきました。被害に会われた方は、いい医師ではない医師に治療(?)をされ、必要のない薬を大量に処方され、精神医療、薬に絶望した方たちばかりです。

だからもし、「気分が悪くなる」「辛くなる」のだとしたら、それはいまの日本の精神医療の実態がそういうものだからではないでしょうか。




また、コメントの中にあったように、精神科に通う人は、良くなりたい・治りたい一心で通っている、と。確かに、そういう方も大勢いらっしゃるでしょう。それで良くなれば、私は何もいいません。

しかし、通っても通っても、良くならない。通えば通うほど、薬の量が増えて、悪くなる、ということは、寄せられた体験談のほとんどの方が経験されていることです。

 ということは、「一縷の望みを否定」しているのは、私のブログではなく、治療にあたった医師本人ということにならないでしょうか。

そして、その果てには、いったい何人の方が自死を考え、安楽死の方法を模索し、実行(未遂)されているでしょう。


薬と自殺の因果関係ははっきりしません。しかし、何度も何度も薬と自殺に関する同じような話を聞いているうちに(それはある意味で実によく似た話です)、私の中にある確信のようなものが生まれたのです(それが昨日のブログの記事に反映されました)。



また、先にも書きましたが(そして、私はそれを否定しましたが)、「気分が悪くなった」原因として、「精神科医に責任を負わせすぎている」という思いがあるのかもしれません。

確かに、前のブログで、「3年間も治療を続け、その間、精神科医の誰一人、彼女を治すことができなかった、ばかりでなく、死に至らしめてしまった」というようなことを書きました。

アリスパパさんもよく書かれていることですが、世のなかのひずみの中で生じた心の問題のなにもかもの解決を精神科医が背負わされているという、ある意味で理不尽な現状は私も認識しています。それは無理なことです。だから、そういう立場に立たされてしまった精神科医に同情すらします。

100人いれば100通りある生き方、性格の中から生じた心の問題(症状)を解決する(治す)のは、精神科医一人の力では不可能と言わざるを得ません。

精神科医は患者を治す役目ではなく、手助けする役目――。

それを自認している医師ならいいのです。そういう医師なら患者を薬漬けにすることもないはずですから。

しかし、多くの医師は、そうした立場に立つことなく、患者を治そう(寛かいに導こう)として投薬をします(治せないとわかっているのに、ポーズをとらざるを得ないためか、本当に治せると信じているのかわかりませんが)。しかも、かなり安易に、原因を追及することもなく、従って何の検査も行わないまま、己の主観のみで診断を下し、薬を処方します。

「手助けをする」というのは、患者が主役の治療です。しかし、現在の精神医療の主役は患者ではなく、医師のほうです。




精神医療は仮説の上に仮説を重ねてできあがった世界です。だから、そこに「治す」という概念は当てはまらないのかもしれません。そうだとしたら、精神科医自身、謙虚な観察目と真摯な態度が、より一層求められるはずですが、現実はどうでしょう。

私はそこを問いたいのです。患者は言われたとおり薬を飲んでいればいい、質問や疑問は一切受け付けません、そんな患者不在の医療を行っているという背景があるから、それならせめて「治して下さい」と言いたいのです。だから反意語として「治せない」という言葉を使うのです。専門家として薬を処方した、その責任の所在をはっきりさせるためにも。




そもそも精神医療は医療でしょうか? いまのところそういうことになっています。医療を標榜する限り、「治す」「治さない」と、そこを追及されるのは当然のことではないでしょうか。(精神医療の世界では「治す」ではなく「寛かい」という言葉でお茶を濁していますが)。

しかし、精神科の場合、そういう言葉づかいからもわかるように、その点がひどくうやむやにされています。追及されることがほとんどありません。患者自身、医師に自分の病気を治せるとは思っていない節さえあります。だから、追及をしないのでしょう。こうなったのは自分のせい……。

 そうしたことが、精神医療の問題をさらに複雑にし、表面化させにくくしているように感じます。原因と結果があまりにも曖昧です。責任は、安易に精神科を受診した患者側にあるのか、安易に薬を処方した医師にあるのか……(もちろん一概に言えないことは百も承知です)。

 そういう見えにくい世界を、多少なりとも視界のよいものにするには、さきほどの振り子の話ではないですが、多少極端な方向へ向かわざるを得ないのです。



 私は学者ではありませんから、精神医療の一般論は語れません。また、そうした情報もいりません。訳知り顔の意見も無意味です。

「何がしたい?」

と問われれば、まずは情報を広めることだと思っています。薬によってなぜこのような状態になってしまったのかわからずに、行き場を見失ってしまったという話をよく聞きます。そんなとき、自分に似た体験談を読むことで、多少は救われた気持ちになれた。一つの解決が見つかったと。しかし、気付くことはある意味で辛いことでもあります。薬が危険なのはわかった、ではどうすればいいのか。その提示が今のところできないのが、本当に私自身つらいことです。


 またこうした実態をどこへ訴えるにしても、漠然とした情報では、誰も動きだしてはくれません。一般論では誰も動いてくれないのです。具体的な被害の実態、その数の多さが、何かを動かすとしたら、絶対に必要です。この持論は以前も述べました。

そして、この問題をネットの世界の中だけでなく、もっと身近な問題として、世間の人に認知されることを願っています。向精神薬によって人間はどうなってしまうのか。そうした情報がこの問題から遠いところにいる人々にまで伝われば、精神疾患を抱える人、薬によって被害を被った人たちに対する偏見も、多少は緩和されるのではないかと考えています。

そうしたことをご理解いただいたうえで、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。