昨日、仮福真琴さんにお会いした。仮福さんというのはもちろん仮名だが、その名前でホームページとブログを作られている。(ブックマークにあります。)

 彼女と最初に言葉を交わしたのは、今年の3月、精神医療へのある抗議活動の場でだった。ご夫妻で参加されていて、私はまだライターとしてこの問題に取り組み始めたばかりだった。周囲に集まった人たちを何気なく見まわしていると、ふと仮福さんと目があった。それで私のほうから近づき、声をかけたのだが、仮福さんは私がライターであることを知っても身構えることなく、こちらの懐へすーっと入ってきてくれた。その時点で、私はまだ彼女のHPやブログについては知らなかった。

 数日かけてHPとブログの両方に目を通した。そして、私は精神医療に対する最大級の怒りを胸に抱いた。

 ご自身の体験を赤裸々に語ったHP中の「精神科医の功罪」――体験者本人がよくぞここまで冷静に自分の身に起こったことを分析し、このような文章にまとめたものだと、正直驚き、と同時に、これは本当に起こったことなのだと自分に言い聞かせながら、仮福さんのあの笑顔を思い出していた。

 産後うつ――当時はそんな言葉もなく、ただちょっとした精神的な不調から保健所の方に相談したところ、精神科へとつながれてしまった。それが仮福さんの精神医療との格闘の始まりだった。

 洞察療法という精神分析的な療法をまず受けられ、そこで心をめちゃくちゃにされてしまった。それはまるでブルドーザーで心の中を踏み荒らされたようなものだった。人の心の中は誰でも一種の「百鬼夜行」であろうと思う。その「百鬼」を医師はただ呼び覚ましただけで、鎮魂の祈りを捧げることもなく、患者を放りだしてしまったのだ。その後、仮福さんのたどった道は、仮福さん自身も書かれているように、「医原病」による精神疾患との闘いである。

 しかし、踏みにじられた心をいやすために、次に精神医療が差し出した方法は薬物療法だった。33歳から46歳まで、仮福さんは精神科病院に通院し、さまざまな薬を処方された。



 以下はHPからの引用。

「毎回、毎回、薬がかわり、だんだん増えているのです。眠剤も紹介状には、ベゲタミンBだったのが、すぐにベゲタミンA(強いほう)に変わっていました。
 ヒルナミン、コントミン、抗てんかん薬、抗うつ剤、抗そう剤、フェノバール、ポララミン、抗パーキンソン薬、抗不安薬、眠剤、副作用止め、+ 新薬、多剤併用。
 この処方に一貫性は無く、治療方針も見えず、処方は毎回のように変えられていました。そして、入院中は出たことが無かった、アカシジアという副作用が数ヵ月後に出ると、薬を減らすことをせずアキネトン(副作用止め)の注射を毎回射ちました。
 私のように、幻覚幻聴妄想もない患者(抑うつ神経症)が、強い薬を多量多剤で飲むと、精神状態そのものが不安定になり、気分の上下が激しくなります。今、カルテを見ると症状は、ほとんど副作用だったと思います。それに対して、また薬を増やし、注射を射ち、私は数年で体重が45kgから63kgになりました。思考も鈍くなり、薬で医者の言いなりと言うか、医者から離れられなくなります。離れるのが、何か怖くなったのではないかと、今思います。
まさに、麻薬です。
 私は、一時期家で、寝ているか、食べているかどちらかになり、さすがに夫が主治医に電話をしてくれました。
 しかし、処方は変わっていません。
 私は、10年以上、本一冊読めず、新聞一行読めず、ドラマ、映画の筋も追えませんでした。」


 昨日、お会いしたとき、仮福さんは数枚の写真を持ってきてくれた。以前、お昼をご一緒したとき「太っていたころの写真、お見せしましょうか?」と言われたので、私がお願いしたからだ。

「なんて、まあるい顔でしょう!」

 薬の副作用で体重が18㎏も太ってしまった仮福さんは、まるで別人だった。

 仮福さんはにこにこしながら、もう一枚、写真を私に差し出した。太った女性が床に転がっている。

「あの頃は、いつもこんな感じで、ごろごろしてるだけ。家事も何もできませんでした」



 13年間の通院治療のはて、仮福さんはついに自殺未遂を起こした。そして、通っていた病院とは別の病院に入院することに。そこの主治医は仮福さんにはっきりと、この状態は「医原病」であると指摘した。その言葉で目が覚めた仮福さんは精神医療から離れることを決意した。減薬、断薬――しかし、それをできる医師は皆無に等しい。精神科医に絶望した彼女は自力で薬を断っていった。HP中の、2005年、仮福さん48歳のときに書かれた文章でその経緯がよくわかる。



 しかし、仮福さんの闘いはそれで終わらなかったのだ。

 仮福さんが精神医療から足を洗おうとしたのと入れ替わるように、今度は娘さん(長女)が同じく精神医療の犠牲者となってしまった。

 その話はあまりに胸が痛む。

まだ14歳。これから先、どのような未来が待ち受け、どのような幸せ、喜び、楽しいこと、嬉しいことが経験できたかしれないのに、わずか14歳で向精神薬を処方され、薬剤性の精神病を発症し、精神障害1級になってしまった。



「カルテを開示し、長女の14歳から19歳までの薬歴を見ていると、14歳からSSRIを処方され、パキシルに変わったあたりから、カルテに「人格が変わってしまう。」とある。
 初診は中3の受験前に、長女はごく軽い強迫症状で、夫と二人で相談して、ごく軽い気持ちで私の主治医に診察を受けさせた。強迫障害と診断されていた。その時は、私たち夫婦もこんな結果を招くとは、思いもしなかった。
 わずか14歳の少女の人生は、音を立ててここから崩れていった。
 薬物療法が始まってから、眠い、だるいと訴えているのに、薬は減るどころかどんどん増えている。抗鬱剤の投与の開始から数ヵ月後、長女は高校入学の内申点になるはずの、期末試験を放棄した。それまで、4と5のトップの成績は、見込み点で2と3になった。長女の進学した高校は、当然そのレベルの高校になった。その中でも、負けず嫌いな性格から学年でトップの成績をとり東進スクールにも通いだし、成績上位優秀者に選ばれた。でも、もう誰とも学校では口を利かなくなり、友人は一人も作らず、心を閉ざした。
 薬を飲む前は、こんな娘ではなかった。主治医に聞くと、
「病気が進んだんだと思います。」と、答えが帰ってきた。そして、2年生で高校中退した。そして、昼夜逆転の生活が始まった。薬を飲むまではなかった症状が、次から次へ出てくる。そのたびに、薬の量が増え、私も長女もこれが薬剤性症状とは夢にも思わず、長女も医者の支持通り服薬し、症状に耐えていた。このままではいけないと、自ら選んだ大検予備校に通い、薬を飲みながらも大検(今は、高卒認定という)は一回で合格した。そして、短大に進んだ。そして、短大の2年間が嵐の時代だった。主治医に娘の事を聞くと、「遅れてきた反抗期のひどいの」と、答えが帰ってきた。」



 まったく仮福さんのHPのタイトル通り、「精神科医はうそだらけ」だ。

 しかも、娘さんへの投薬は仮福さん夫妻には知らされていなかったのである。仮福さんが通院していた医師が長女を診て、わずか14歳の子どもに抗うつ薬を処方して飲ませていたのだ。

 短大の2年間、18歳から20歳頃、娘さんは家庭内暴力で荒れまくった。HPにもあるが、毎晩包丁を2丁持ち出しては両親の寝室にやってきて暴れたという。

 なにが「遅れてきた反抗期」だ! と思う。10代半ばの子どもにパキシルを飲ませておいて、その結果の暴力を「反抗期」で片付けられるなら、医者などいらない。

いや、最初から精神科医などいらなかったのだ。向精神薬などまったく必要なかったのだ。

娘さんが精神科にかかったのは、仮福さん自身まだ精神医療という嵐の真っただ中にいるときだった。向精神薬の怖さも知らされず、精神科医を信じて、懸命に「治療」に専念しているときだった。

しかし、仮福さんは娘さんを精神科にかけたことを悔いている。悔んで悔んで、一緒に死のうと幾度考えたかしれない。


仮福さんが持参した写真の中には娘さんも映っていた。色白の、かわいらしい女性だ。

「これは短大の、荒れていたころ。これはまだ14歳くらいかな。病院に行きはじめた頃かもしれない。妹と一緒のこれは、まだ小さいね。7歳くらいかな」

 娘さんの人生を逆にたどるように写真を見ていきながら、私は本当に胸が潰れそうになった。涙がこぼれそうになった。そして、どうして!? なぜ、こんなことが起きるの!? と心の底から思った。


「毎日私たち家族は、長女に言い聞かせている。毎日毎日、心の傷を嘆く長女に向かって、「お前の、あまりに厳しすぎた人生の中でも、勝ち取ってきたものを考えてごらん。よく、あの状態で、大検をとり、短大を卒業し、就職し、それだけで意味のある立派なことだよ。」と、ほめ続けている。
 だけど、あの時、パキシルであのようにカルテに「人格がかわってしまう」こわれた長女の心、脳には、なかなかこの言葉は届きません。
だけど、私たち家族は、毎日言い続けなければなりません。」

 

 現在も娘さんは治療中である。仮福さんがおっしゃるように「いい精神科医を見つけるのは、砂の中からダイヤモンドを見つけるようなもの」――それくら難しいが、いまは娘さんに合う医師に出会って、落ち着きを見せているらしい。

 それでも、朝、目が覚めると、「ああ、娘を何とか治してやらなければ」と、仮福さんの心はその思いでいっぱいになるという。

 なんとか、なんとか、治ってほしい。私もそう祈らずにいられない。

 エールを送ること、それくらいしか私にできることはない。あとできるとすれば、仮福さんという母娘とが精神医療の犠牲になりながらも、こうして果敢に闘っている姿を伝えること。

 エールと伝達と、そして感謝である。

 なんといっても、私のこの問題におけるライターとしての原点は、仮福真琴さんとの出会いにあるのだから。