この記事で「一年まえを振り返る」というよりも、石井ゆかりさんの「筋トレ週報」の天秤座での記述に射貫かれましてな。
端的に今朝の自分の心境は、通訳というしごとも、おそらく他のいろんなアウトソース人事と同じで、我々がいないと成り立たないような企画仕事であるのにどうしてこんなふうに「使ってやる」の感じで安く見られがちなんだろうって。かなりムカムカしておりましたのさ。公務員とか役人的な立ち位置のひとほど、すきあらば「仕事のクオリティ」よりも、拘束時間とか報酬(経費)カットの罠をしかけてくる気配がむんむん。そのくせパワハラ。使ってやっているのはこっちだ、みたいな。こちらとしては、お金を出してるのはあんたじゃないのに、と心のなかで反論……いや、反論するエネルギーさえも出したくない。仕事が始まる前からイヤケがさしている。
いつだって「これが最後」というつもりで、そこの場にかかわる人たちすべての快適さを担う仕事をする。どういう仕事をするときでも、その部分以外に自分が本当の意味で関われることはないからね。……うーん、わかりにくいことを書いているような気もしてきた。
どういうお仕事であれ、雇用関係が生じることは「お互いのシアワセ」のために尽くすことだと私は思っているのだけれど、いまの社会でそんなことを表立って口にすると「なんてナイーブな」と鼻で笑われ、そういうセリフさえも賃金カットの理由にできないかと相手が胸算用しているのが透けて見える。
私もダメだな。本気で「これで最後」と思うなら、ふさわしいタイミングできちんと相手に向かって「そういう中間管理のやりかたは自分で自分の首を絞めているだけ」と、具体的に指摘するのが正しい。だが、そういう「本気」で関わりたい相手は、百人いて一人いればいいほう。相手のほうも「どうせこいつがダメなら次の有望新人を選べばいいだけ」と思っているフシがある。この(私の心中の)連鎖を断ち切りたい。
十年くらい前、元同業の仲間が「毒を食らわば皿まで」と苦笑しながら、やりかけた仕事は徹底的にやり抜いて、そのことでの自己満足以外に、確かな手ごたえなんてこの社会では得られないんだから、と言っていた。
10年前はそれでもよかったのよ。
いまは……いまは地に足をつけた上で自分の路を切り拓く。
やりかけた仕事とは、つまり「袖すり合う」というかね。ご縁があったってこと。それ以上でもそれ以下でもないのだから、予定をただ消化していく気分に飲みこまれるなんて、もったいない。
結論はおそらくまだ出ない。
性急に「理由」や「責任」みたいなヘドロに足を取られまい。
行き先が見えないのなら、まずはいまの一歩を大事にする。
どうせ同じことは2度とないのだから。