生きてるってことは、つねに動いているということだ。

一つ所にとどまることはありえない。停滞とはすなわち「堕ちている」こと。

そして、個人にせよ集団にせよコミュニティにせよ、堕ちる時はたいてい本当に一瞬だ。

 

動くとは、どちらへ向かって動いているのか。

これはたいていは概念とか妄想に衝き動かされていくんだな。

で、本人が考える「上」にせよ「下」にせよ、人というものはいつのまにかくっつけられた知識で判断するから、移動するには「矯め」とか「慣性」とかの法則をイメージしたがる。

 

要は、自力では何もできない。それもまたある種の思い込みだけどね。

だから、ある人は「背中を押して欲しい」と妄想するし、別の人は「視野を広くしたい」と思ってひたすら人に会いに行く。妄想して動いていくための「ガソリン」を給油してもらおうとする。まあ、それで「動いている」と信じれば動いているのだから、必ずしも間違いではない。

 

でも、そうだとすると、人は人から「意識を向けてもらう」ことや「反応してもらう」ことが必須ということになる。そう思っている人がいまの時代でも相当な割合を占めているはず。それって、まわりにいる人すべてが自分の踏み台ってことだ。

 

そこまで整理して考えていくと、それが絶対ではないだろうという気がしてくる。

人生はギブアンドテイク、という言いまわしがこの「踏み台」の法則を上手に説明しているわけだが、その「ギブ」と「テイク」の等価変換のモノサシはいったい誰が決めるのさ。

 

決めるのはつねにあなた(=わたし)だ。

わたしが決めるなら、そもそも「モノサシを決めねばならぬ」の前提からして胡散臭いと思いたい。

 

多様な存在が共存して生きていくためには、絶対の法律が必要である。が、法律とはそもそも何か。宗教とは何か。共通言語とか読むべき空気とか、そういうものに寄りかからないと生きていけない人間とは何か。

 

いつだって万物は流転する。

その瞬間ごとにきっちりと生きる。それ以外に何があるのか。

 

踏み台とか寄生とか「エネルギーをもらう」の考え方は、思念に縛られるということだよ。

つねに行動し続ける。その「続ける」も同じ。

 

だから、本気で走る人は、自分のことと、自分が出会う瞬間ごとに手一杯になる。悟りとか覚醒とかメソッドとかカウンセリングとか、聞かれれば答えるけれど、わざわざ営業なんかしない。無口がいい、というわけではないが、余計なことは言いたくなくなる。

 

踏み台にとらわれないとは、そういうことだ。