「わからない」は、呪縛が強烈すぎてね。
こういうブログ記事での、ひとりブレスト(ブレインストーミング)ってことだと、おそらく3回シリーズくらいにするのが取っつきやすいかな。
結論というか、いちばんお気楽で、いちばん波動が高い、つまり有無をもいわさず動かしちゃうよ! 何がって、あんたの「世界観」。ってところから記していくなら、松平道明さんの講座で、わりあいと最初の頃によく登場したコレかな。
わからないままにしておく。
最初に「呪縛」と書きましたが、なにが呪縛かって、まず「わからないことは、よくないことである」という大まかでボンヤリとした集団意識なんだよね。なぜ「わからない」といけないのか。って、そもそもそこで質問に応えてしまいたくなりますよね。はいそこ! そこですでにやられていますの。私も、あなたも、誰も彼も。
問いかけとか願いごととか。思考に浮かんできた「思念」かな。それがどんなものであれ、疑問とか「投げかけ」ってことで生じたものは、そこに必ず「到達点」とか「出発点」とか。問いであればすでに答えは準備されている。そういうものです。
が、ただ単に「わからない」は、けっこう波動が高くてさ。
それをみんなわりとすぐ「わかろうと頑張る」けど、人間ってすごいもんでさ。頑張った瞬間、ジャッジがぽん! つまり、そのときに「ああ、わかった」と思えると、すでにそれは自分が見知っているもの、という安心のラベリングを貼ってあとはもう放りだす。もしくは「わからない」ものは、安心できないもの(ここからしてすでに思い込み)だから、危険・怖い・自分の存在を脅かす→よくないもの、ということにしてしまう。
別にそれでもいいんだけどね。
新しいものと出会う。知らないものと出会う。そのたびにジャッジして、それまでの自分の概念に当てはまらないものにいちいち「警報」とか「知らないもの、イコール危ないもの」と否定してたら、つかれるよ。
まっさらな感覚。
無垢の味わい。
おぎゃあ! と生まれてきた赤ん坊の時点で、生きるための選択を人は余儀なくされている。そこに、どれだけベタベタと、余計なものを貼りつけて私たちは生きているんだろうね。
母親からの刷りこみ。インセプション、と松平さんは言っていたけど、それでさえも「あなたのお友達は、どこからが本当にあなたのお友達オリジナルですか」って、このブログでも私はつぶやいたよね。わりと最近。親から刷りこまれたモノが歩いているだけ、という人間が、この世界ではどれくらいの割合なんだろうなあ。もちろん、ご先祖さんや親がいてこそのDNAの運び屋、という私たちです。
話がずれるけど、この世での一生は「神さまから、いまのこの身体という器をお借りしているカリソメのもの」という思想もあります。身体が器なら、心はどうよ、魂はあるのか、と、なりますが。ま、いいや。
わからない、という呪縛の話。
だから、わからないときほど、ああそうか、と。
これは「わかった」ときの、ああそうか、ではなく。わからないままにしておく、という、肯定の意味の「ああそうか」でいい。
それはそれで、やってみるとけっこうしんどいよ。
呪縛も、よーく観察してみるとほとんど「ただの妄想」で出来ている。が、どういう未知(道!)を選択していくか。うん、いったんはまず「わからない、をわからない、のままにしておく」がオススメです。
おっけーっす。