子供を産むのは、究極の親のエゴという考えがあります。
こちらのサイトでは、子供の立場からの相談が寄せられています。
一方で俗にいう「望まれなかった妊娠」であるために降ろされる子供も親のエゴに付き合わされた。どんなときも子供は親に振り回されているように見えます。
別の考えでは、子供は「生産財」から「消費財」へ
という考えがあります。
少し前まで、子供は「生産財」という呼ばれ方をしていたのです。
これは、「子供は大きくなったら親の面倒をみる」ということが期待できた為です。
中略
そして、子供は「生産財」から、「子供と一緒にいることが幸せだ」「子育てが楽しい」という考えの延長線にある「消費財」という考え方へと移行したのです。
私がこの考えに最初に出会ったのは、清家篤さんの話しで、清家さんが慶応大学の教授だった頃でした。
私の記憶では、清家敦さんは、昔は第一次産業の従事者が多かったので、子供が多いほど収入が増えたのですが、今はサラリーマン家庭が増えたので、子供の数が増えても収入は増えないのだから、少子化は必然。今は少なく子供を産み、大切に育てる時代だというのです。避妊の普及も、大きな理由でしょう。
私は簡単に納得しました。
私の両親の2組の祖父母は、6人ずつ子供を産み育てました(戦時中のこと、生めよ増やせよの時代だった)。両親の兄弟では長男が農家の跡継ぎで、長女は農家に嫁ぎ、残る兄弟(特に男子)は、義務教育を卒業すると皆親戚が経営する会社に就職しました。いわゆる「金の卵」です。
母は、長女だったので子供時代は弟妹の子守のために学校に行けず、長男(母の兄)は男の子だから子守はできない(させられない、と言う方が正しいように思う)ので、学校に行き成績が良かったそうです。
母の子守は、4歳(もう直ぐ5歳)から子守を始め、母の背が低いので弟をおんぶすると足が地面に付く、と冷やかされたそうです。まるでドラマおしんですが、おしんより小さい4歳の時でした。おしんは奉公先での体験ですので、実家で子守をした母より辛かっただろうなと思います。
今、ヤングケアラーという存在が話題ですが、これも昔の考えから生まれているのではないでしょうか。
父は、母の兄と同じように育ち、やがて農家の跡継ぎとして母と結婚しましたが、父の我儘のために家を出ることになりました。この時、親戚を含めて大騒ぎとなったそうで、父は、
「以後、実家の財産の相続を求めない。先祖の祭祀も放棄する」旨の一筆に署名しました。私と母はこのことを全く知らなかったので、祖父が亡くなったときに、この文書を見せられましたが、驚きませんでした。印象に残っているのは墨の匂いだけで、
「達筆だな~」と思いました。
まあ、そんなことはどうでも良いのですが、それほどに長男が家を出ると言うことは、大きな問題だったのでしょうね。まだまだ、日本帝国憲法の家督相続制度の考えが色濃い時代でした。
こんな時代に、私って生まれたんだ・・・。とちょっとしみじみ・・・。
男の子は、農作業ができるようになると手伝ったそうです。この手伝いが欲しくて、多くの子供を産んだのでしょうね。更に、長男が不幸にも亡くなった時は、次男が跡取りとなったそうで、実際母の実家は、長男が小さいときに亡くなったので次男が、父の実家は父が後を継がなかったので、4男が跡取りとなりました。
ハリー王子ではないけれど、多くの子供を産むことは、スペアを作ることなのです。イギリスでは、スペアは「世継ぎと予備」と言う意味なのですね。知りませんでした。
私の場合は、父が我儘勝手な人なので、
「どうせ、老後の世話を期待して私を産んだんでしょう?」というと、父はニヤニヤしながら、隣の人になにかささやいていました。もう子供ではないので、父が何を言っているかは当然分かります。
この時、法律が許すならば殺したい、と思った最初の体験でした。
その後、
「離婚したら、どっちと一緒に住む?」と父に聞かれたので、
「どっちとも住まない。大学卒業できるまでのお金をちょうだい。一人で暮らす」と答えました。
父は、母との離婚を考えていたのでしょうか?しかし、離婚したら母の家事が期待できなくなるので、母のスペアとして私を選ぼうと思ったのでしょう。
「そう思い通りにならないわよ」と今も思います。生活力が全くないだけではなく、経済力もないことを私たちは知ってしまいました。