昨日、たまたま“がんになって良かった”と言いたい~京大生のSNS闘病記~というタイトルの番組を見ました。

 

この番組を見て、がんと闘っている京大生の姿に感動しました。是非大学院にまで進み、社会に出てからの活躍を応援したいと思いました。一方、同じ病気で同じ移植を受けた女性が、亡くなるという悲しい現実に心が痛みました。

 

この女性は、フツーの生活を送りたいだけとおっしゃっていました。私も同じ想いなので、深く共感しました。

 

そう思う一方で、違和感がありました。

 

私は”両側二次性股関節症と共に歩んだ半生記”というタイトルの本を書きました。それは、アマゾンで電子書籍として販売されていますが、購入者は知人のみで、悲しい限りです。そもそも友人・知人でさえ、読まない人もいるのですから、興味を持たれない著作なのだなと思っています。

 

この著作について何とか、自費出版ではなく、企画出版(商業出版?)として世に出せないかと考え、投稿を続けていますが、

「個人の体験」といわれ、読んでくれる人がいないので出版できないそうです。

 

この著作は決して個人の体験ではなく、私が経験した障害者差別、女性差別、学歴差別を語っています、そしてそれは多くの人が体験していて、共感してくれる人は少なくないと思うのですが・・・。それとも、

「そんな差別はとっくに知っているよ」とでも言うのでしょうか。それならば国民から広く周知されている差別が何故無くならないのかについて、語り合いたい気持ちです。

 

もっとも、人口の半分を占める女性の差別が無くならないのですから、根が深いと言わざるを得ません。

 

そしてなぜ、京大生や小林真央さんのようながん患者のSNS、または乙武さんの五体不満足などは反響があるのに、私の体験は個人の体験と一蹴されるのでしょうか。

 

死と向き合っているからでしょうか。そして私は死とは無縁の病気だからなのでしょうか。

 

そういえば、乙武さんは、

「不便だけれど、不幸ではない」とおっしゃっているそうなので、そこが感動を呼ぶのでしょうか。だから私には乙武さんを見習いなさいというのですかね。乙武さんの症状をよく知らないで、結論めいたことはいってはいけないと思いますが、そこをあえて言わせていただければ、乙武さんには痛みなどの自覚症状はないと思っています。そして痛みや倦怠感などの自覚症状を我慢すれば、何でもできてしまう私のことに共感してくれる人は少なく、反対に人間性を否定はされるのが現実なのです。

 

私の病気は、幸いに寿命が短くなる病気ではありませんが、それゆえに、生活費や治療費などのために働く必要があり、股関節が動かなかった時期には車の改造も必要でした。障害者が生きて行くには、健常者よりお金がかかるのに、そんな状況を手当てしてくれる制度はありません。そして障害者にとって働きやすい環境が日本にあるとも思えません。

 

そのことを訴えても、個人の体験して一蹴されてしまうことに違和感があります。

 

志半ばで、この世から去らなければならないことは、どんなに悲しく、無念なことだろうことは私もよくよく分かっています。

 

しかし、生きるためには生活費が必要で、その生活費を稼ぐために働いてきた私は、どちらが目的でどちらが手段なのかが分からないくらいにストイックな生活を送ってきました。それでも人間性を否定されてきた過去を多くの人に知ってもらいたいと思っています。