物事を論じると言う事は、その論じる「観点」と言う前提が問題と成ってくる。

例えば、喉声を全否定した観点(殆んどがそれ)で指導するから、マックスの声のバランスが見えて来ないのである!


マックスの声とは、勿論、バランスの整った声であり、広範囲で力を受け止めている仕組みに成っている。

voce di gola(喉の声)と言う概念が大切な要素として言われているのも、強くて安定した声には、喉声も含まれている!と言う事である!


また、各国の言語において、その国らしさを醸す本質は、マックスの声の構造に至らない、「比較的低エネルギーにおける偏り」に他ならない。


即ち、マックスに近い音声は、「何語にも聴こえ、何語でも無い」と言う、所謂、言語的特徴を越えたものである!


それらの理解に乏しい指導者が、例えば言語的特徴に拘る余り、強い声での発声のバランスと言う観点に盲点が生まれる事に成る!


言語学的理解を越えた、音声学的普遍性が、楽音である以上、優先される事があると認識している。


普遍とローカルの兼ね合いの問題である。


喉声を全否定していては、声の観点に盲点を形成する所以である!