友人が念願のロレックスの時計を購入して、僕に見せてくれた。

彼が期待した反応を出来なかった僕に対して、落胆の表情を彼は僕に向けたけど、それは仕方のない事なんだと思う。

実は、僕は今まで腕時計をしたことがない。

そして、おそらくこれからもしないと思う。

その話をしたら彼は残念そうな顔をして僕に、『可哀想に』と控えめに告げた。

どうやら、彼にとって腕時計の感触が分からない事は不幸な人間なんだと感じているのだと思う。

以前サラリーマンの時に身だしなみとして、腕時計をするようにと言われた事があったが、持ってないことで何かのトラブルになったという記憶がない。

腕時計なんか無くたって、それなりに充実した人生は送れるものだと思う。

これまでに「試験の時どうするの?」と言うことを度々聞かれた事があった。

これも、実に簡単なこと。

時間が分かったって試験の結果は変わらないからだ。

分かる問題は分かるし、分からない問題は分からない。

腕時計と試験の結果の間には、何一つ因果関係などない。

時計があろうと無かろうと、時間内に問題を解くという事には何も変わりはないのだ。

もちろん、腕時計によって、ある種のひらめきがもたらされる可能性が無いとの前提に立ってのことだけど。

そうは言ってみたものの、自分の部屋を見渡してみると、室内には実にたくさんの時計がある事に気づく。

オーディオにもスピーカーにもパソコンにも炊飯器にも、電話機にも以前の仕事でもらったボールペンにも時計が付いている。

それどころか、屋外ではバス停にまで時計が付いていたりもする。

いくつあるのかまでは数える気はしないが、相当の数の時計が僕の行動範囲の中で時を刻んでいる事に気付く。

しかも、困った事にそれぞれがそれぞれの時間を思い思いに刻んでいる。

それはそれでどうしたものかとも思うが、特に不便を感じないのでそのままにしてある。

思い返してみると子供の頃は、家の中にこれほど多くの時計は無かった気がする。

少なくともボールペンに時計は付いて無かった様な気がする。

だからと言うわけではないが、腕時計に、何百万もかける人の気持ちが実はよく分からないのだ。

誤解をしてほしくないのは、時計を趣味にする事を否定している訳ではない。

きっと、彼には彼の世界の捉え方があるはずで、その世界の延長線と僕の価値観が単に交わらないと言う事だけなのだ。

だから、仮に彼がカントになんの興味を示さなかったとしても責めるつもりはない。

彼にとっての腕時計と僕にとってのカントは同価ではあるが、まるで別の次元に存在している。

なんだか、おかしな事だけど。

そもそも、カントと腕時計は同列に語られるべきものではないのかも知れない。

話を戻そう。

時間なら携帯電話や、バス停でさえも確認する事が出来る。

理想から言えば、日の出と共に起きて日の入りとともに寝る、太陽の位置で生活をする。

そんな生活が出来ればどれだけ幸せな事だろう。

そんな僕を見て、彼が可哀想と言いたくなるのは、無理もない話なのだろうけど。