僕と彼女は市民楽団で知り合った。
どこにでも良くある吹奏楽の市民楽団だ。
僕の担当はコルネットというトランペットに良く似た楽器で彼女はホルンを担当していた。
出会ったのはもう10年以上前の事で、その頃すでに彼女は結婚していて僕は高校を卒業したばかりだった。

新入りの僕に色々世話を焼いてくれたのが彼女で、最初は特に親しい訳ではなかった。
演奏会用の楽譜を買いに行った彼女とばったりと出会ったのをきっかけに、僕らは急速に親しくなった。
そしてそれ以来、頻繁にお互いで行き来するようになった。

彼女の夫にとって僕はきっと奇妙な存在だったろうと思うが、その頃の僕にはそういう事を気にかける能力が欠けていた。
それはきっと他にいくつも気にすべきことがあったからなんだと思う。
もちろんどれも取るに足らない事ばかりだった様な気がするが、今となってはよく思い出せない。
「嫉妬」「好意」「疑惑」といった様々な手続きをしないで済む、非常に限られた幸運な時代に出会えた事だけは確かだ。

いつしか僕達3人はよく出来た家族の様に過ごす事になった。
彼らからは2人きりでいたいという願望があまり感じられなかった。
結局、少し年上の一組の夫婦との楽しい日々を過ごす事になった。
そしてその関係は僕が大学を卒業して仕事を始めてからもしばらく続いた。
音楽事務所に所属する事も、学生でいる事もそんなに大差は無い事なのだ。
もちろん時間的にという事において。

その関係が変化をしたのは夫婦に子供が生まれてからの事だ。
彼女とは徐々に会う機会も無くなり、今度は彼女に代わって彼女の夫と親しく行き来するようになった。
気づけば僕らは年齢を飛び越えた親友になっていた。
世間的にはこちらの方が何倍も良い事だと思う。

ある日の日曜日いつもの様に彼がビールを持って僕の部屋にやってきた。
1本目のビールを飲み干した後、彼はおもむろに僕に切り出した。

「僕は今やきもちを焼いているんだよ」
僕は冷蔵庫から2本目のビールを取り出すと彼に「誰にですか」聞いた。
「誰だと思う」彼はビールを受け取ると1口飲んで僕に言う。
「さぁ・・・僕の知ってる人?」
「うん。君のよく知ってる人だよ」
僕は彼との共通の知り合いを頭に思い浮かべてみる。
元々、そんなに知り合いがいないのですぐに候補が尽きてしまう。
僕は考え込む。

「こんな出来損ないのクイズみたいなまねはやめよう」
彼は沈黙を切り裂くように言い出す。そしてこう付け加える。
「いいかい。笑わないで聞いてくれるかい?」
僕はうなづく。
「僕がやきもちを焼いているのは息子に対してなんだよ」
別にそんなに驚きはしなかった。
きっと愛する妻を独り占めされているような気になったのだろう。
僕はそう口にした。しかし彼の理由は違った。

「僕がやきもちを焼いているのは君の言う様な、妻との関係じゃないんだ。そっちの方がどれだけ普通なのかと思う」
「でも、あなたは息子にやきもちを焼いている」僕は聞き返す。
「正確に言えば彼の可能性に対してだよ」
「可能性?」僕は聞き返す。
「そう、可能性だ。彼はこの先色々出来事に出会って色々な事を経験する。僕の出来なかった事を全てやる可能性があるんだ」
「そうでしょうね」
「そういう事を考えていくとなんだか何も出来なかった自分が悔しくなるんだよ。そしてだんだん情けなくなってくる。気持ちが沈んでしまうんだ」
「そんなものなんですか」
「君には子どもがいないから分からないだろうけど」
「子どもどころか僕は結婚すらしていないですけどね」
彼は優しく笑う。

「ところで君はこういう気持ちに対してどう思う?」
「正直よく分かりませんね」
「そうだろうね」
僕は冷蔵庫から枝豆を取り出しテーブルの上に置く。
それから僕らはただ黙ってビールを飲み干す。
ステレオからはディクシー・チックスのラヴ・ソングが流れている。

「なぁ、うちの息子はこれからどんな女の子に出会うんだろう?」
「多分、奥さんみたいな人じゃないですか」
僕は何故かすぐにそう答えた。
「そうかなぁ・・・それならちょっとホッとするけど」
「ホッとしますか?」
「そうだね。ちょっとホッとするな」
彼は宙を見あげて天井の一点を見つめる。
そしてもう1度「うん。そうだな」と言い、残りのビールを飲み干した。

僕はその続きを待っていたけれど、結局その話はそこで終わった。
そして彼は何も無かったかの様に違う話を始めた。
そこにはさっきまでの雰囲気の欠片はどこにも見当たらない。
彼の息子へのやきもちは、きっと僕が思うほど、特別な意味のある話でなかったのかも知れない。

家庭というシュール・レアリスティックな存在の中で、自然に彼の中に芽生えた等身大の感情。
それは簡単に僕に理解できるものではないのだ。
そう考えると僕はなんだか、急にひとりぼっちになった様な気になった。

彼は軽く伸びをすると「なぁ、ちょっと表に出ないか」と僕に言った。
「うん」僕は言う。
確かに表の空気を吸いたい気分だった。