タニムラさんは
「今まで16歳の女の子と
付き合ったことがありますか?」
と僕に訊いてきた。
僕はしばらく考えた後「ええ、多分16歳の時に」と答えた。
「それが何か?」僕は訊いてみる。
タニムラさんは「いえ、何でも無いんです」と言った。
その場はそれで終わりだった。
先にも後にもどこにも進む事はなかった。
僕とタニムラさんは長野のとある町から東京に戻るところだった。
1度松本に出てそこから特急の中央線で東京へ。
その日の21時過ぎには東京に到着するはずだった。
ところが、ここ数日の大雨の影響で、大月の先辺りでがけ崩れが起こってしまい、列車は完全にストップしてしまった。
結局僕達は中央線の車両の中で翌日の朝を迎えた。
明るくなると乗客にはそれぞれ弁当とお茶が配られ、希望者には新聞や雑誌も配られた。
僕は手渡された新聞に1面から順に目を通した。
特に急いでるわけでもないし、他にする事も無かった。
「実は私には今、16歳の恋人がいるんです」
タニムラさんが突然口を開いたのは、僕の目が岡本のホームラン記事に差しかかった時の事だ。
僕は最初タニムラさんの言っている事が何の事だか分からなかった。
しばらく考えて昨日の話の続きだという事を理解した。
彼なりにきっと気持ちを整理する時間が必要だったのだろう。
「その事で何かやっかいな問題を抱えているんですか?」
僕はとりあえず訊いてみる。
「えぇ、その通りです。やっかいな問題を抱えています」
僕はしばらく宙を見つめてから新聞に視線を戻す。
「質の良い日本刀の見分け方」と書かれた広告が少し気になる。
「それは克服するべき課題と言える様な問題ですか?」
「えぇ、克服するべき課題と言える問題です」
僕は新聞をたたんで傍に置き、視線をタニムラさんに移す。
「克服するべき問題を抱えた16歳の少女との交際」
僕は頭の中でそうつぶやいてみる。
もちろん、意味なんてさっぱり分からない。
「相手は出会い系サイトで知り合った
女子高生です。
私は日々罪悪感に襲われているんです。
彼女に対してはもちろん、何も知らない妻や、
彼女と同じ歳の私の娘に対してもです」
「僕に善悪の判断をしろと言うのなら期待しないほうが良いですよ」僕は困って口にする。
「いえ、事の善悪の判断など他人に委ねても
意味のない事なんです。
訊くまでも無くこんな事は悪いに決まってます。
こんな交際はすぐにやめるべきですし、
もちろん、その決意もちゃんと固まっています。
実は私がお聞きしたいのは
もっと根の深い問題なんです」
「根の深い問題?」僕は訊き返す。
「はい。とても根が深く、克服するべき課題と言える様な問題です」
僕には事態がよく飲み込めなかった。
「私が思い悩んでいるのは
罪悪感の方に対してなんです。
正確に言えば罪悪感を感じる私に対して
悩んでいるのです。
いえ、勘違いしないで下さい、
私は悪党になりたいわけではありません。
むしろ一生平穏に、そして善意の中で
健やかに生きていきたいと
常に思っています。
罪悪感は自分の道徳観念の尺度です。
今回の事で私の日常は
ひどく不愉快なモノに豹変しました。
もちろん激しい罪悪感に襲われました。
生温かいどろりとした感触が
体のいたるところを這い回り
それが通過した後にはそこから
粘着質の汗が吹き出てきます。
とにかくそれが不定期に私を襲うんです。
ある時は就寝前、ある時は仕事中、
それは不定期にやって来るんです。
ところが私にも人並みの道徳観念が
存在したと思った瞬間、
私はまだ墜ちる所まで墜ちたわけではないと
ホッとしてしまうんです。
そう安心してしまうんです。
私は罪を犯しておきながらそれを悔いる事で
逆に安心を手に入れてしまったんです。
妻や娘に対して行った卑劣な裏切り行為に対して
むしろ私は誇りを感じてしまったんです。
私はどうにかしています。
こんな事はあってはならないです。
にも関わらず、罪悪感を抱えれば抱えるほど
私はむしろ免罪符を手に入れているような
気分になるのです」
「罪悪感は道徳的だが、その道徳を意識した瞬間に、その意義が失われて行く」僕はつぶやく。
「その通りです。だから私は怖いんです。
こうしてお話していても
なんだか落ち着いてくるような
この感覚が憎くなります。でも、同時に・・・」
タニムラさんは言葉を失う。
僕は2つの観点を頭の中に思い浮かべる。
(a)の観点において感じるタニムラさんの不条理感は(b)の観点において解放される。
(a)善悪とは感情レベルの問題である
罪悪感とは感情の純度で測られるものであり
自己満足などの不純物が混じっていれば
善の度合いは低くなる。
答え)
タニムラさんは満足感を感じる分だけ罪悪感の純度が低い。
(b)善悪とは倫理レベルの問題である
罪悪感を感じる事と、
その事に対して何か思い描く事とは
本来であれば別のレベルの問題である。
行為の善悪と、罪悪感に対する感情は
互いに干渉しない独立した存在である。
答え)
タニムラさんの満足感は、事の善悪とは関係のない事柄である。
僕は(a)の観点と(b)の観点の間を行ったり来たりしてみる。
時にはひっくり返し、時には融合させて。
そして長い道のりの後、僕は1つの結論を口にする。
「不倫に関してもう1度新しい視点で内省してみる事をお薦めします。罪悪感の意義について考える時に罪悪感の純度が下がるのならそうするしか道は残されていないんだと思います」
「私に出来るでしょうか」
「さぁ、分かりません。ただ、僕に言えることはこれだけです」
しばらく沈黙が流れる。
沈黙を破ったのは車内アナウンスだった。
線路の復旧作業が終わり、間もなく列車は東京に向かうという事だった。
「今日はどうやら帰れそうですね」
タニムラさんは安心した声で僕に言う。
その声が列車の事から来るものなのか、僕の答えから来るものなのかは分からない。
でも、列車は動き、僕等は東京に向かって動き始める。
僕に分かるのはそれだけだ。
列車が動き始めてしばらくしてからタニムラさんは僕に言った。
「すいません突然下らない話をしてしまって」
「いえ、こんな言い方は不適切かも知れませんけど、興味深いお話でした」僕は言う。
「お詫びと言ったらなんですが、東京に戻ったら1杯どうですか?お薦めの店があるんです。今度は長野の話でもしながら」
その表情にはさっきまでの雰囲気は全く感じられない。
「いいですね。僕もそんな気分です」
止まった時間が少しずつ動き出す音が僕には聞こえた。
