グザヴィエ・ド・ラングレ著、黒江光彦訳、美術出版社。フランスでの初出は1959年、日本で翻訳が出版されたのは1968年である。著者は油彩技法・材料の学習に置ける教祖的存在というか、油絵について網羅的な知識を求める道のうえで避けて通れない人なので、もし町で油彩技法にやたら詳しい人に出会ったら、その人はラングレを読んでいるとみて間違いはない。
そういった方々はときに保ちについてもこだわりを持っていて、絵の寿命は何百年も保つものでなければならないと言う。これは私の個人的な体験と感想なのだが、そういう人が「なぜ絵の寿命は長くないといけないか」という問いに明確な答えを持っている感じはしない。普通に流通している絵の具はそれなりの耐久テストを突破しているので、極端な描き方・保存方法をしない限り絵は数十年は保つし、数十年以上の寿命が必要な絵というのは特別なものだけだ。確かに材料と技法に気を使うと仕上がりは美しくなる。しかしなぜ極端に長い寿命が必要なのか? その答えが「せっかくだから」に行き着くのではせんないことだ。
その点ではラングレはさすがというか、絵がなぜ永遠の輝きを持たなければならないかをまえがきに記している。それはやはり彼の目からすれば、近代の急性に制作された作品の劣化が「みじめ」に写っていることも挙げられているが、本質的にはキリスト教論なのだ。
彼は20世紀の油彩技術の変化をこういう表現で書いている。
「人間が自分の手で、創造者と被創造物の間と、宇宙のリズムと人間固有の血のリズムとの間の均衡を保たせるものを、壊しているということは明らかなのではなかろうか」
この前後と合わせて読んでみると、「宇宙」などスケールの大きい言葉、「焼き滅ぼす」など宗教的な表現などが頻発する。
引用部分を解釈するために必要な知識は、中世ヨーロッパの大学での教養課程で音楽の科目があり、そこでは音楽は「楽器」「人間」「宇宙」の三種によるものに分類されていたということである。ラングレはそのことを引用して表現している。楽器の音楽とは普通に耳にするいわゆる音楽のことであり、人間の音楽とは心拍に代表される人間が持っているメカニズム、宇宙の音楽とはマクロコスモス、簡単に言えばこの世のことわりみたいなものである。
次に読解しなければならないのは「創造者と被創造物の間」という言葉。これは前後の文脈から、画家が作品の組成をコントロールできなくなっていると読むことも十分に可能であるし、むしろそう読むのが自然だろう。しかしこの直前なぜかラングレは「拙著『鐘の下の島』の主題をもち出すまでもなく」などと言って唐突に自分の本のステマをしている……これがどんな本かは、翻訳が出てないし私はフランス語が読めないのでなんとも言えないが、調べてみるとどうやら空想科学小説で、昼や夜や過去未来といった概念についての無知、魂の喪失、などといったことが主題ということのようだ。ということは、その小説における主題のもと、「創造者と被創造物」の関係性にあるのはもちろん神と人間なのであり、本書において「創造者」という表現をあえて使ったということは、ここに神をかけてきているということだ。
絵を描くということは人間が物を作るという行為であるとともに、神と人間が関係し合う行為でもある……そういう回答が見えてくる。
もうちょっと言うと、おそらくラングレはこの部分を書くときにダンテの「神曲」を意識している。「神曲」は神の英知を歌い上げる大作だが、その中でダンテは「自然」と「人間の技術」について、「神が与える美」として書いている。山がきれーだなー、というのも神のみわざ、神の芸術作品である。これは分かりやすい。しかし、人間の技術というのも、神が分け与えた「お示し」なのである。つまり、職人が高度な技術で見るものを惚れ惚れさせるような品を作れるのは職人が偉いのではなく、神がその力の片鱗を分けてくれて見せてくれた、ということなのだ。
という技術に対する宗教観はダンテの頃からあり、キリスト教世界には連綿と受け継がれていたようだ。ラングレが言いたかったのは、材料を高度に扱い、高い技術で永遠の輝きの元にある絵を描きあげることは、神の御業に触れること、つまり神を知る手立てなのだ。
だから、絵の寿命を延ばすということは、信仰の一形態なのである。
本全体の話をすると、別に宗教的なことは言ってなくて技法・材料について広く書かれた、読みやすい本である(ときに詩的ですらあるが)。若干情報が古いが、増補版が出ている。しかし油絵に限っていうと、全体的な技術としてはもう完成し切っているので大きな変化が起こることはないであろう。それはラングレが500年前を絶賛したことと奇しくも合致する。