映画『すずめの戸締まり』クソデカ激重感想※ネタバレあり※追記しました | 杢ログ-Mokulog-

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『君の名は。』すら見た事ないオタクが最近好きになったライバーさんが新海作品の大ファンだからというただそれだけの理由で軽い気持ちで観に行ったら激重感情抱いて大号泣してふらふらになしながら帰って来ました。

 

いいんか、私の初新海作品がこれでいいんか。

 

と思ってしまってももう観てしまったのでどうこう言っても仕方ありませぬ。

 

それでは感想ではございますが、タイトルにもありますように私のクソデカ感情丸出しの感想になりますのでご注意下さい。

内容が内容だけに今回の私一切ボケる余裕がありませんのでご了承下さい。

 

一応下げますね。

楽しい映画の感想だけを読みたい方はお戻り下さい。自分で言うのも何ですがきっと楽しくはありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2011年3月11日ってね、もう私の人生の瑕疵なんだなぁって思った。

この日が出て来ると、もう私は正常な判断がつかない。

これから先もそうなんでしょう。それを受け止めて生きるしかない。

 

劇中で東北の風景を眺めて「ここってこんなに綺麗だったのか」という台詞が出て来ますが、それに対して「綺麗?これが?」と主人公すずめは言う。

 

それは、そう。その通り。

 

東北のあっちを車で走った事があるけれど、本当に綺麗なんですよ。

緑が広がっている。新しくて綺麗な家が建っている場所もある。

「綺麗」なんですよ。でも、それはどうして、そんなに綺麗なの?ということ。

それは「何も無くなった」から「綺麗」になった場所なんですよ。

かつて其処にはもっと様々なものがあった。でも無くなってしまった。

だから「綺麗」に見えるだけ。

そこには哀しみと苦しみと、そして死がある。

 

画面にちらりと映った「帰宅困難地域」の看板や、黒い袋。

あの黒い袋が何か分かった人達はどれだけいるんだろうと思った。

あれはゴミ袋じゃないぞ。行き場のない放射能汚染土がああやって積み上げられている。

 

遠くから眺めればそれは美しい景色でしょう。

でも目を近付ければ、見えるものが沢山ある。それでもそこは「綺麗」なのか。

 

なんて残酷な一言なんでしょう。

それを罪とも悪とも思わないけれど。綺麗なのは本当なので。

でもそこには「綺麗?これが?」という感情が湧く。どうしても。

それでもこの台詞とそれに対するあの言葉は必要だったと思う。

抉り突くような残酷な言葉だったからこそ。

 

「後ろ戸」は廃墟に出没するという。

そこにはもう叶わない「ただいま」や「いってきます」や「おかえりなさい」があるのかもしれないと思った。

もしくは「いってきます」すら言えず、「ただいま」も言えない、「おかえりなさい」を言って貰えない、そういう思い。

 

すずめの実家にどんどん近付いて行く描写。本当にしんどかった。

波音が聞こえる堤防の傍。ああ、どうしてすずめの家が無くなったのか分かってしまう。

幼い頃のすずめの日記、3月頭の日付から始まって、8、9、10…と日付が進んで。

あ~~~~~~~もうやめてくれ~~~~~~~~~~~…という気持ちでいっぱいだった。

もう、リアルなのよ…私も3月に入って9日くらいまでは「○年前の今日は平和だった~…」とか考えてしまう。

10日になったら「明日か…」ってなる。もうだめ。

 

新海監督すごいね。よくここまで描いたもんだよ。

 

母を喪い、家を失い、「いってきます」も「ただいま」も「おかえり」も消えてしまった幼いすずめに成長したすずめは「私は貴方の明日」と言う。

これ「未来」じゃなくて「明日」って言うのすごいいいなぁって思った。

「明日」の積み重ねの先に未来があるから。

明日があると信じられる、明日があると言い切れる、その感情はひとつの勇気みたいなものなんじゃないかな。

 

エンドロールですずめは道中で出会った人々と再会する。

それはすずめが生きていたからで、そして相手の方々も元気で生きていたから。

「生きるも死ぬも運」というのはその通り。そして縁を結んだ人達ともう一度会えるのはとてつもない幸運。

 

そんな事を思いながら何故「戸締まり」という言葉がタイトルに入っているのかを考えた。

どんな場所を、どんな時に「戸締まり」するのか。

戸締まりをする場所は「帰る場所」であり、戸締まりをする時は「でかける時」

「いってきます」と言いながら戸締まりをして、戸締まりをした場所に「ただいま」と帰る。

タイトルの「すずめの戸締まり」というのは「すずめが後ろ戸を閉める話」ではなく「すずめが草太と共に後ろ戸を閉める役目を果たして行く中で、止めていた時間を動かして新しい人生を歩み出す」という話なのでしょう、きっと。

だからすずめは戸締まりをして「行ってきます」と言う。大切な人が待っている「帰る場所」の戸締まりをして外に出る。

そしてまた戸締まりをした大事な場所に「ただいま」と帰って来る。

 

どうかどうか。多くの人々の「ただいま」が叶いますように。

 

 

※2022.11.12追記※

 

私がこの作品で受け取ったのは「明日を信じられない少女が明日を信じられるようになる話」だと思った。

芹澤は突然いなくなった友達を探しに行くわけだが、今日会っていた知人が明日も当り前のように会えることは本当は奇跡そのもの。
本編では会えた(草太が元に戻った)が、災害とはそういうものも簡単に無くなってしまう。

「今度」も「次」も押し流れ圧し潰される。

芹澤ね、いいやつなんだろうよ。分かる。わかるよ。
でも君は劇中で一番残酷なこと言うんだよ。「こんなに綺麗だったのか」と。
それは悪いことじゃないんだよ。
たぶん多くの人間がそう。
彼は私からしたら「そっち側の人間」
なんの疑いもなく純粋にあれを「綺麗」だと言った彼の、彼等の感覚が羨ましい。
私もそっち側が良かったと何度も思ったし、これからも思う。
「闇が深い」と芹澤は何度も言うが、私にしてみたら彼のような人間もまた闇のひとつ。
何も知らない、忘れてしまってるかもしれない、そういう人達が、私には底無しの闇のようにたまに思える。

闇を闇だと言う「闇を知らない闇」だ。
何も、誰も悪くない。責めているわけでもない。
でももう決定的に「違う」 私は「こっち側」なのだ。
誰しも望んでそうなったわけではない。ならない方がいいと思う。

そういう人がこれ以上増えないことを祈ります。どうか平和平穏が続きますように。

叔母のたまきさんの話。
震災で母を喪ったすずめに「うちの子になろう」と言う。
たまきさんが軽い気持ちで言ったわけではないというのは百も承知だが、では本当にそこまで覚悟があったのだろうかとも思ってしまう。
たまきさん自身も姉を亡くしているわけだから、たまきさんも大きな悲しみと傷を抱えているだろうけど、だから姪を失うまいと必死になる。
それは間違いなく愛なのだ。
でもたぶんたまきさんは愛し過ぎてたのかもしれないな。
だから自分自身も、すずめにも重かった。
あれで少しは軽くなっただろうか。

 

私は震災のあの映像を見たり、そういう話題に触れると涙が出て来る。

でもどうしてこんなに泣くのが自分でも分からない。

哀しいのか、辛いのか、苦しいのか、痛いからなのか、怒っているからなのか。

でもこの作品に触れて思ったことはひとつ、やっぱり私も「帰りたい」のだ。

震災を経験する前の自分自身に戻りたい、あの頃の自分を取り戻したい、と切に思う。

でも戻れない。定まった過去は取り戻せないし永遠に変えられない。

私はもう震災前の自分がそれまでどういう価値観で生きて来たのか思い出せない。

あの出来事を境に「あっちの私」と「こっちの私」がいる。

そして「こっちの私」はもう「あっちの私」がどんなだったか、もう分からない。

 

そして同時に強烈なまでの「生」を感じる。

ああ、あの出来事を経てなお私は生きている。

幸いにも私は誰も喪わなかった。でも喪いかけた恐怖はずっとそこにある。

でもそれも、生きているから。生きているから感じる。

 

「泣く」ということは「受け入れる儀式」なのだという。

私はたくさん泣いて、あの現実を受け入れようとしている。

見ない・触れない・拒絶するという選択もあるけど、私はあまりしたくない。

次に進めないから。絶望を受け入れないと希望を持てないから。

 

「よく出来た作品」だと思うしこれを描いた監督の覚悟も凄いと思った。

でも私はもう二度と観たくない。この作品の話を誰ともしたくない。

ここで思った事を書くのが精一杯。1回観るので精一杯。

正直途中で3回くらい退席しようと思ったけどふんばった。

退席するだけの余力も無かったのかも。

 

それでも観た事は後悔していない。

この作品に触れられて良かったと思う。

何のネタバレにも触れないうちに見れて本当に良かった。

でないとたぶんもっとこの映画に歪んだ印象を抱いてしまっていたと思う。

そういうの、私はしたくない。

だったらもう自分から進んで突っ込んで言った方がマシ。


他の新海作品も観てみたくなった。

私の中のオタクがもっとキャッキャッできる話が観たい。


すずめが見た「常世」の景色は満天の星空だったが、それは常世そのものがそういう世界なのか、それとも見る人によって変わるのかは分からないが、もし人によって常世の景色が変わるのであればすずめが見た常世の景色はまさに母を喪ったあの日の夜そのものだと思った。

 

2011年3月11日、街の灯りが消えてしまったあの日の夜はこれ以上ないほどの満天の星空だったから。

 

たくさん泣いてたくさん心を抉られたけど、でもそれだけじゃなかったので。

私はこの作品にちゃんと「明日」を見た。