【ネタバレあり】映画「罪の声」感想 | 杢ログ-Mokulog-

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正直に言えば私はこの手の「社会派」というジャンルの物語が苦手です。

元々ファンタジーが好きなので。

世間のしんどい荒波を溺れながら(溺れてんのかい)渡っているつもりの身としては現実から離れたいので…

 

それでもこの「罪の声」を観ようと思ったのは、星野源さんがご出演だったからです。

そう、こんな重いテーマの作品なのに観た動機は「推しの推しがいるから」でした。

軽い。ちょろい。この私がそういう映画を観る理由なんて所詮そんなもんです。オタクなので。

 

さて本編の感想です。

 

ラスト30分くらいからですかね、俊也の母が真実の告白するシーン、あの学生運動のあの場面から、心臓を鷲掴みされるような気持ちになりました。

それと同時に涙が出そうになりました。あの場面を目にして、どうしようもなく涙が込み上げて来ました。

なんとか耐えていたんですけど、エンドクレジットでは遂に決壊してぼろぼろ泣いてしまった。

 

あの涙と気持ちは何だったのでしょう。

こういう映画を観て泣いたのは初めてでした。どうしてあんなに涙腺がおかしくなったんでしょう。

たぶん、たぶんなんですけど、「悔し泣き」だったんだと思います。

私は滅多に滅多に悔しいと思うことがないのですが、でもすごく悔しいと思ってしまった。

何に、どう、とは言えないんですけど、悔しくて泣いたんだと思います。

 

望の母と弟があの音声を聞いて泣くシーンを見て私はこの作品のタイトルの「罪の声」とは一体何を指すのか分からなくなりました。

誰かにとっての娘であり姉である少女の声は間違いなく「遺品」であり「思い出の品」でもあって。

それでも「犯行に利用された音声」である事には変わりない。

ただ簡単に淡々と「罪の声」と呼ぶ事は、何か違うんじゃないかと思ってしまった。

そういう「側面もある」という事を、強烈なまでに突き付けられ、そして汚泥の中の光の粒のようにも思えました。

 

では一体「罪の声」とは何だったのでしょう。

あの様々な人々の証言の数々、あれもまた「罪の声」なのではないか?

俊也の母と伯父が告白したのは決して「罪」ではない。あの二人が語ったのは「己の正義」そのもの。

そんな事を考えます。

ですが二人とも決して「正義」という言葉は口にしない。ただ「奮い立った」と言う。

それが、この物語における最大の妙技だと思いました。

凄まじい説得力というか納得させられる力というか、圧力というか、力を感じました。

ここで「正義」だとか何だとか語られたらだいぶ白けていたと思います。

でもこの、奮い立つ、というその言葉が、物凄い力を持っている。

犯罪に共感したわけでもなければ同情したわけでもありません。

ただただ「そうか、奮い立ったのか…奮い立ってしまったのか…」と思ってしまうだけの何かがありました。

 

「罪の声」は何なのか分からないけど、確実にそれは存在していて。

まるで正体不明の不気味な怪物のようです。

なのに「声の罪」は確実に、明確に、残酷なほどに存在している。

このタイトルが「罪の声」で「声の罪」という言葉が出て来た時、ゾワァツとしましたよね。

なんて言うんですかね、こういう表現の仕方を…私は詳しくないんですが、ここは純粋に「物語」を好むものとして「そういう!台詞回し!最高に好き!」って思いました。

 

阿久津と新聞記者の仲間達について。

まだ原作を読んでいないので小説だとどうなっているのか分からないのですが、私は野木脚本作品の「淡々と仕事する」様子が好きです。

私は現実のマスコミは大嫌いなのですが、こういう人達なら応援したくなる。

(もちろん中にはちゃんとしている人達がいるのも知っています)

 

さて、私は有名人の、有名人でなくとも、私生活をあれこれと書き立てる記事が大嫌いです。

怨みがあると言ってもいい。憎んでいると言ってもいい。

誰かの人生を娯楽として大衆に消費させるような記事が大嫌い。

でも無くならない。次から次へと生み出され、そして造り出される。

私は人類最大にして最高の娯楽は「自分とは無関係な所での醜聞」だと思っている。

野次馬行為と言うべきかな。

嫌いだけど、でも楽しいのは分かる。分かってしまう。腹立たしい事に。

そして「消費されるエンターテインメント」というものが嫌いです。

ニュースでも、芸能でも、全てひっくりめて。

昨今、どんなジャンルでもそういったものが多い。

そして私もまた「エンタメ消費者」の一人です。お金を出してエンタメを買い上げていると思っているので。

そう思っている中で「消費されない記事を書け」(みたいな台詞。本編はちょっと違うかも)という言葉は、何かこの作品における一つの信念のようなものを感じました。決意と覚悟、でもあるかな。

 

「アンナチュラル」「MIU404」でも語られていた事ですが野木脚本作品には「不条理を不条理で返さない」という一本通った筋を感じます。

この世には平等も公平もない。当たり前のように差別や偏見や不公平不平等や不条理がある。

そんな世界で地に足を付けて正しくある事はとても難しい。折れそうになります。

私は出来てる自信ないですけど、けれど「正しくあろう」と努力している人がいる事は知っている。

そして、難しいしめんどくさいししんどいけどまっとうに生きる努力を惜しんだら最終的に損するのが誰なのか、知ってしまってもいる。

なので私は“そう”生きるしかない、と思います。

 

最後に、この映画が「消費されるだけのエンタメ」にならない事を切に願います。