こんにちは
トータルメンタルサポート
ラポール・ラボの
ジュンコ田中です
今日も私の大好きな「働き方の哲学」の
著者:村山昇先生の
サイトをシェアさせていただきます。
村山先生は
〜14歳から大人まで
生きることの根っこをかんがえる〜
というコンセプトでわかりやすい
どなたでも読める哲学の読み物を
無料で公開してくださっています。
↓
1.自己・2.成長・3.価値・4.人の間・5.人生
という構成になっていて
今日は、第5章〈人生〉 #01
ほんとうの自分
~ダヴィデは石のかたまりの中にいた
をご紹介します。
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〈じっと考える材料〉
石の
四つ子兄弟がいた。
みな粗くて大きいだけの
石だった。
長男A石は、
「おれはなんでこんな堅くて
融通(ゆうづう)がきかない体なんだ。
もっと柔らかくて、軽やかで、
輝くものとして生まれたかった」と、
そんな願望を抱いて
放浪の旅に出てしまった。
次男B石は、
自分を飾りはじめた。
色とりどりのペンキを塗り、
紙や布で装飾をした。
三男C石は、
「自分のとりえは堅固で
安定しているところだ」
と考えた。
自分をガツンガツンと分割するや、
建物の柱を支える基礎石になったり、
石垣になったり、
あるいは漬けもの石となって
自分を役立てた。
四男D石は、
自分を彫りはじめた。
彫刻の技術をこつこつと磨き、
ねばり強く自分に
一刀一刀入れていった。
やがて、
粗くて大きいだけの石は、
力強くも流麗(りゅうれい)で
繊細な彫刻物となった。
町の人びとはその彫刻を
美術館に展示し、
その美を永遠に称(たた)えた。
わたしたちは
さまざまに生を受ける。
ある人は、
よい家に生まれたり、
容姿に恵まれたり。
逆に、ある人は
「なんでこんな親のもとに」とか
「どうして自分はこんなに才能がないんだ」
というふうに生まれてくる。
なぜ、
そうした生まれながらの
不平等が起こるのか?
───それは科学がいくら進んでも、
科学では解明できない問題であるし、
科学が答えるべき分担の問題でもない。
これは哲学や宗教が
分担する問題といえる。
ある教えは
「それは天が決めたこと」としたり、
別の教えは
「それは自分自身の
過去の行いが決めたこと」
と答えたりする。
どの答えが
絶対的に正しいということは
証明できないが、
あえてあるとすれば、
それはあなたが一番納得できて、
生きることに力がわく答えが、
「あなたにとっての正しい答え」
である。
結局、
どの答えを“信じるか”
の次元に行き着く
問題となる。
さて、ともかくも、
あなたは生まれてきた。
気がつけば、
いまのような環境のもとに、
いまのような身体、
資質をもって生まれてきた。
もう、
これから逃げようはない。
人がよりよく生きていくのは、
先天的に受けたものをベースとしながら、
後天的な努力で
いかに自分を納得いくまで
輝かせていくかという
活動である。
わたしたちが
先天的に受けるもののなかには、
好ましいものも
好ましくないものもある。
たとえば、
裕福な家庭に生まれ
お金の心配がない、
とても利発的な頭を持ち
勉強ができる、
運動神経と体格に恵まれ
スポーツが万能である、
などは
好ましいものを
先天的に受けたわけだ。
だから、
あとはこれを
どう最大限生かしていくかになる。
逆に、
経済苦の家庭に生まれ
進学のためのお金がない、
病弱に生まれ体力がない、
なにをしても
不器用で人並みに作業ができない、
などは好ましくないものを
先天的に受けたわけである。
ただ、
最終的にそれが
悪いものだったかどうかは、
自分のその後の
生き方によって
決まるといえる。
たとえば、
ヘレンケラーは
先天的に三重苦
(目が見えない、
耳が聞こえない、
口がきけない)
の障害を抱えた。
しかし、
彼女は後天的な努力で
見事にこれらを克服し、
大きな人生を歩んだ。
悪い境遇をむしろバネにして、
よい方向へ自分を
押し上げたのである。
逆のことを言えば、
生まれながらに
恵まれた環境に育っても、
そのことに甘えてしまい
自己中心的な生き方に
なってしまえば、
だれからも見放されてしまい、
ついには不幸な人生で
終えることも生じる。
さて、
石の四兄弟の話に移ろう。
ともかく彼らは、
粗くて大きな
石の身で生まれてきた
(ここでは、
あなたが粗くて
融通のきかない資質で
生まれてきたと
想像してもいいでしょう)。
そのとき、
兄弟はそれぞれどうしたか───
長男A石は、
たぶん自分を直視するのが
いやだったのだろう。
自分の身がもっとなにか
素敵なものだったらよかったのに、
と現実逃避の旅に出てしまった。
次男B石は、
自分の外側を飾り立てて
安心しようとした。
たしかにいっときは
人目を引くことは
できるかもしれない。
でも、
雨や風に当たれば
装飾ははげてしまうし、
はげた姿はよけいに
みすぼらしくなってしまう。
さらに、
B石の意識はどこにあるだろう。
「人からどう見られるか」
ばかりを気にしてはいないか。
その点、
三男C石は
自分という素材に
きちんと目を向けた。
そのうえで
「この自分を世の中に
どう役立てていけるか」
というところに意識がある。
そこで、
自分の特性を
もっとも生かすことのできる
道でがんばろうとした。
四男D石も
自分自身から逃げなかった。
彼は技術を磨き、
自分自身を彫りはじめた。
イタリア・ルネサンス期の
彫刻家ミケランジェロが
彫った歴史的名作に
『ダヴィデ像』がある。
あの力強くも流麗な
「ダヴィデ」は
どこにいたのだろう?───
それは
たしかに粗大な
石の塊(かたまり)の中にいて、
ミケランジェロが
彫り出したのだ。
「ほんとうの自分は
どこにいるんだろう?」
「自分はこれから
どうなっていくんだろう?」
といった不安は
だれにでも起こる。
そんなときこそ、
自分という石の塊と
正面から向き合い、
刀を手にとって、
自分を彫り出していくことが
大事なんだろう。
その逃げない行動を
積み重ねることで、
「ほんとうの自分」
は姿を現す。
彫り出してみて
はじめて、
自分はなにを
彫刻したかったのか
がわかる。
彫り出してみて
はじめて、
自分の能力を
証明することが
できる。
彫り出してみて
はじめて、
彫刻物が存在として
影響力を持つ。
そしてなにより、
その彫り出すことに
懸命になった日々が、
財(たから)の
思い出になる。
[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]
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