
柔道の必殺技「山嵐」で有名な、明治のヒーロー姿三四郎こと西郷四郎
講道館柔道の初代四天王のひとりでもあり、黒澤明監督の「姿三四郎」のモデルでもある西郷四郎。
会津藩最後の筆頭家老「西郷頼母」の養子{実子説もあり}として、合気道も元とも言われる一子相伝
御留流「大東亜流柔術」の継承者でもあるという。
と、いわゆる武道の達人としての側面が印象深いが、後年講道館を辞した後には、この長崎の「東洋日の出新聞」の編集責任者として、大陸を股にかけ活躍し、鈴木天眼はもとより孫文先生とも深い友情で結ばれ辛亥革命の実現に尽力したと言われる。
晩年は、この長崎において青少年の育成にも努力し、ねづみ島{現在の長崎游泳協会}、諏訪ノ森武徳殿{現在の諏訪ノ森体育館}を残された、長崎にとっても大恩人のお一人と言えます。
ご本人もこの長崎をこよなく愛され、病気療養のため、「尾道」滞在時に亡くなられたが、お墓は長崎市大光寺
にあり、現在も綺麗に整備され花も耐えない様子である。


今回、この資料コ-ナ-設置ともうひとつのご報告に先日、四郎さんのお墓参りも行ってまいりました。



さて、このように、明治のヒ-ロ-「姿三四郎」としては著名ではありますが、長崎の西郷四郎としては、
認知がまだ足りないように思え、その点を掘り起こそうと考え、
今回の当店での資料コ-ナ-設置に際し、もう一つ考案したものを次の項でご報告いたします。

最後の写真は、今回の西郷四郎研究において、おおくの資料とアドバイスを頂いた朝日新聞福島支局の
川口のあっちゃんとのツ-ショットです。どうです!会津美人ここにあり! マスタ