14世紀に駿河の守護に任じられた今川氏により今川館が築かれ、領国支配の中心となったのが始まりです。16世紀に武田氏に侵攻を許すと、この地は武田氏の今川領支配の拠点となりますが、武田氏滅亡後は徳川家康の支配地となりました。
徳川氏時代に駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されたそうです。家康の関東移封後は豊臣系大名の中村一氏が入城しますが、関ヶ原の後は再び家康の手に戻り、 1601年、家康の異母弟・内藤信成が駿府城主となりました。
1607年には失火により天守、本丸御殿が焼失しますが直ちに再建、1609年には家康の十男頼宜が駿府藩50万石で入ります。ただし、当時頼宜はわずか7歳であり、徳川秀忠に将軍職を譲り駿府に隠居していた家康による大御所政治の拠点というのが実状です。
家康の死去後、頼宜が和歌山55万5千石に移封すると、秀忠の第二子忠長が入りますが、乱心により改易・蟄居となり、江戸時代の大部分は江戸幕府の直轄領として城代が置かれました。
1635年、城下の火災が延焼し城も焼失しましたが、天守は再建されませんでした。
1868年江戸城開城にともない徳川慶喜が隠居すると慶喜の養嗣子田安亀之助 (徳川家達) が駿府藩主となり、慶喜とともに駿府に移りました、翌年廃藩置県となりました。

北御門跡

巽櫓(左)と東御門(右)。いずれも復元。

二の丸御門跡

坤櫓(復元)

天守台跡。1610年に再建された天守は七階建てで江戸城並みの規模だったとの説も。
現在発掘調査中ですが、調査結果が待たれます。

紀州より献上された鉢植えのミカンを家康自ら植えたとも伝えられるミカン。と家康像。

東御門・巽櫓内が資料館となっており、その入場券売り場で出してもらえます。
徳川氏時代に駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されたそうです。家康の関東移封後は豊臣系大名の中村一氏が入城しますが、関ヶ原の後は再び家康の手に戻り、 1601年、家康の異母弟・内藤信成が駿府城主となりました。
1607年には失火により天守、本丸御殿が焼失しますが直ちに再建、1609年には家康の十男頼宜が駿府藩50万石で入ります。ただし、当時頼宜はわずか7歳であり、徳川秀忠に将軍職を譲り駿府に隠居していた家康による大御所政治の拠点というのが実状です。
家康の死去後、頼宜が和歌山55万5千石に移封すると、秀忠の第二子忠長が入りますが、乱心により改易・蟄居となり、江戸時代の大部分は江戸幕府の直轄領として城代が置かれました。
1635年、城下の火災が延焼し城も焼失しましたが、天守は再建されませんでした。
1868年江戸城開城にともない徳川慶喜が隠居すると慶喜の養嗣子田安亀之助 (徳川家達) が駿府藩主となり、慶喜とともに駿府に移りました、翌年廃藩置県となりました。

北御門跡

巽櫓(左)と東御門(右)。いずれも復元。

二の丸御門跡

坤櫓(復元)

天守台跡。1610年に再建された天守は七階建てで江戸城並みの規模だったとの説も。
現在発掘調査中ですが、調査結果が待たれます。

紀州より献上された鉢植えのミカンを家康自ら植えたとも伝えられるミカン。と家康像。

東御門・巽櫓内が資料館となっており、その入場券売り場で出してもらえます。






















