五稜郭は1855年、箱館開港時に函館山の麓にあった箱館奉行所の移転先として江戸幕府により築城された稜堡式の城郭です。

稜堡式城郭は15世紀にイタリアで発生された築城様式だそうで、死角をなくし多方向からの援護射撃を受けやすいように星形へと進化しました。

完成の2年後に幕府が崩壊すると、短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で旧幕府軍の本拠となりました。明治に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用されました。
1914年からは五稜郭公園として一般開放されています。

五稜郭
五稜郭タワーから見た五稜郭。

五稜郭橋
半月堡と堡塁を結ぶ二の橋。

函館奉行所
函館戦争後に解体されましたが、2010年に一部が復元されました。
ここの入り口に100名城スタンプがあります。

五稜郭タワー
五稜郭からみた五稜郭タワー。
展望台のチケット売り場にも100名城スタンプがあります。
現在のタワーは二代目。

兵糧庫
兵糧庫。
築城当時から残る唯一の建築物です。

五稜郭スタンプ
郡上一帯は、鎌倉時代前半から戦国時代末期まで、千葉氏支流の東氏が支配していました。
しかし、1559年、牛首山(後の八幡山)の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされました。
この時築いた砦が郡上八幡城の始まりとされています。
ちなみに、山内一豊の妻、千代はこの遠藤盛数の娘です。

その後盛数の長男慶隆が城主となりますが、本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下にあったことから追放され、1588年に稲葉貞通が城主となり城の大改修を行いました。

関ヶ原の戦い後、再び慶隆が城主となり、城の改修を行いました。
その後、5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以後井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷し、青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、1870年に石垣だけを残し取り壊されました。

現在の天守は、大垣城を参考に1933年に作られた模擬天守で、木造模擬天守としては最古のものです。

郡上八幡城石垣
城の西側の石垣

郡上八幡城天守と櫓

郡上八幡城門

郡上八幡城天守


郡上八幡城天守からの眺望2  郡上八幡城天守からの眺望
天守からみた郡上八幡の町
千早城は1332年、大和と河内結ぶ交通の要衝である千早街道を見下ろす金剛山に楠木正成により築かれた山城です。
楠木正成は鎌倉幕府への抵抗の拠点として、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村・富田林市・河内長野市にかけて、楠木七城(千早城・下赤坂城・小根田城(上赤坂城の一部)・桐山城(上赤坂城の一部)・烏帽子形城・龍泉寺城(嶽山城)・金胎寺城)を築城しましたが、そのうちの一つです。千早城は赤坂城の戦い(1331年)の後、赤坂状の詰め城、総指揮所として築城され、1333年の千早城の戦いの舞台となりました。

建武の新政以後、南朝方の楠木氏の居城として、楠木正行、楠木正儀そして楠木正勝と続いていた。しかし、1392年楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城し、廃城となりました。


千早神社参道入り口
千早神社への参道入口

千早城四の丸
四の丸広場

千早城三の丸 千早城石碑
三の丸跡と石碑

千早神社
二の丸は千早神社となっています。

まつまさ
金剛山への登山口にある豆腐のまつまさに100名城スタンプがありました。


高遠城は、木曽家親が初めに築城したのではという木曽家の伝承もありますがこの辺りははっきりしません。初めての修築は、1184年笠原平吾頼直によるもと考えられています。
その後、南北朝時代ごろまでは諏訪一族の一つである藤沢氏が支配していたようです。

その後の約200年は高遠城は諏訪氏一門の高遠氏が支配していました。
諏訪氏当主の頼重と反目していた高遠頼継は、武田晴信に内応して諏訪攻略を援護し、頼重は武田により滅ぼされますが、諏訪の領有を巡り武田と頼継は対立し、1545年に武田勢は高遠城と藤沢頼親の福与城攻めを行い、伊那地方への進出拠点としました。

1562年 、晴信の庶子で諏訪氏の娘を母とする四郎勝頼が諏訪氏を継承し、高遠城主となりますが1570年に武田義信が廃嫡されると後継的立場となり躑躅ヶ崎館に呼び戻され、高遠城主は信玄実弟の武田信廉となりました。

長篠の戦い後、仁科盛信(信盛)が高遠城主となり、守備兵約3000人で織田信忠5万の大群と対峙しますが、戦死、落城します。
武田滅亡後は毛利長秀、本能寺の変後は藤沢頼親などが入りますが、最終的には保科正直が入ります。

江戸時代は京極氏・保科氏・鳥居氏と度々城主が交代しましたが、1691年に内藤清枚が3万3千石で入封以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えました。


高遠閣。昭和8年に高遠城址公園内の休憩所・町内の人の集会所として建てられた。登録有形文化財。


桜雲橋。


問屋問。元々、高遠城下、本町の問屋役所にあったのが移築された。


本丸跡。


太鼓門。


高遠町歴史博物館。ここの入り口に100名城スタンプがあります。


絵島囲み屋敷。時代劇の「大奥」で知っている人も多いかもしれません。
絵島生島事件で、最初死罪を命じられた絵島が月光院の嘆願により高遠藩への遠流となり、この囲み屋敷で幽閉生活を送りました。
この屋敷は残存する古図をもとに昭和42年ほぼ同じ場所に復元されたものです。


戦国時代の1504~1520年頃に信濃守護の小笠原氏が居城である林城の支城として深志城を築城したのが始まりと言われています。
武田氏による信濃侵攻が始まると、1550年小笠原長時は追放され、深志城には馬場信春が入り武田の支配地となりました。

1582年、武田氏滅亡により織田長益に明け渡された後、織田信長によって木曾義昌に安堵されますが、本能寺の変後、越後の上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還します。さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名しました。

1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城主小笠原秀政は下総古河へと移りました。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行いました。現在の天守はこの頃建てられたもので、最も古い現存天守の一つにも数えられます。

その後、石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城します。
大坂の陣以後は、松平氏、水野氏、堀田氏、戸田氏などの譜代大名の居城となりました。1726年以降は戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とし、幕末を迎えました。


黒門。本丸への入り口で、昭和35年に復元されました。


東から見た松本城。
中央の天守から右側は渡櫓と乾小天守、左奥が辰巳附櫓、左手前が月見櫓。いずれも国宝。
辰巳附櫓と月見櫓は太平の世になってから増築されたものです。
城の手前は本科跡。


南西から見た松本城。



北西から見た松本城。


二の丸跡。

 
平成11年に復元された太鼓門。


スタンプは本丸内の事務所入り口にあります。