山城の一乗谷城と山麓の城下町(朝倉氏や家臣の居館)をあわせて善哉は一乗谷朝倉氏遺跡とも呼ばれます。

15世紀前半には朝倉氏により城が築かれ、南北朝時代には朝倉氏の本拠地となっていたと考えられています。
応仁の乱により荒廃した京都から避難してきた公家や高僧らも多くやってきたため京文化が花開き「北ノ京」とも呼ばれました。
朝倉孝景のころ最盛期を迎え、人口も1万人を超える越前の中心地として栄えました。

孝景の息子、朝倉義景は1573年、北近江の戦国大名浅井長政と同盟を組み織田・徳川軍と戦いますが、一乗谷の戦い(刀根坂の戦い)で敗れ、朝倉家の繁栄も幕を閉じました。

一乗谷城唐門
唐門

朝倉義景館跡
朝倉義景館跡

一乗谷城南陽寺跡
南陽寺跡の石碑

一乗谷山城
背後には山城があった。

一乗谷復元町並み
復元された戦国時代の街並み


一乗谷武家屋敷
復元された武家屋敷。

一乗谷城スタンプ
スタンプは、復元町並みの入口にある券売所で言えば出してもらえます。
京都の二条付近に建てられた屋敷は複数ありますが、それぞれに連続性はなく、現存している二条城は1601年、関ヶ原で勝利した徳川家康が築城したものです。二条城という呼び名は幕府側のもので、朝廷側は二条亭と呼んでいました。

1603年に落成し(但し天守の完成は1608年。その天守も1750年落雷により焼失。)、伏見城で征夷大将軍補任の宣旨を受けた家康は二条城に入城しました。
1634年家光が上洛し、入城したのを最後に、将軍の二条城への入城は14代将軍家茂の上洛(1865年)までありませんでした。

1867年には15代将軍慶喜による大政奉還が行われ、徳川幕府終焉の舞台となりました。

二条城東南隅櫓
東南隅櫓、重要文化財。22棟の重要文化財、6棟の国宝が二条城にはあります。

二条城唐門
二の丸唐門、重要文化財。

二条城二の丸御殿
二の丸御殿、国宝。


二条城スタンプ
スタンプは、二の丸御殿東側の休憩所においてあります。
かつての浜松の拠点は曳馬城で、築城者については諸説あるが、瀬名姫の先祖である今川貞相が初めて築城したという。
時期についてはいくつかの説があるが、今川氏の衰退後は徳川家康の支配下となる。

1570年に家康は武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移し、岡崎城は嫡男・信康に譲った。曳馬城を西南方向に拡張し、かつてこの地にあった荘園(浜松荘)に因んで城名・地名ともども「浜松」と改めた。
1573年、武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながらこれを無視するような行軍をして家康を挑発。挑発された家康は浜松城から打って出たが、武田軍の巧妙な反撃に遭って敗北を喫した(三方ヶ原の戦い)。
拡張・改修は1582年ごろに大体終わったが、1586年に家康は浜松から駿府に本拠を移した。

家康以後、1590年からは秀吉の家臣堀尾吉晴と、その次男堀尾忠氏が合わせて11年間、以後は、一時徳川頼宣の領地だった時期を除いて、譜代大名各家が次々に入った。
歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。

浜松城は明治維新後に廃城となり破壊された。城址は1950年に「浜松城公園」として整備された。

浜松城井戸
天守横にある井戸


浜松城天守1浜松城天守2
絵図の記録もなく、近世には天守はなかったらしい。本丸にあった二重櫓が天守代用とされていた。
現在の天守は1958年に鉄筋コンクリート製の復興天守として再建されたもので、丸岡城を参考にしたとも言われている。
天守台を始め石垣は野面積みといわれる方法で、加工しない石を積んでいるため、登られやすい欠点はあるが、排水性が高く粗雑な見た目の割には頑丈である。

浜松城天守門
天守門。
天守台の東に位置する櫓門で平成26年に復元された。

浜松城家康像
浜松城は天守曲の東側に本丸があり、現在は本丸跡に若き日の家康像が立つ。
山中城は永禄年間(1558年 - 1570年)に北条氏康により築城されました。
小田原を防衛する西の最重要拠点でした。
北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになりますが、間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎えることになります。 1590年、小田原征伐で豊臣秀次率いる6万とも7万ともいわれる軍勢に攻撃を受け、守将である北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら4千は奮戦し、豊臣方の武将にも多くの戦死者を出すものの、猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死しました。戦後、山中城は廃城となりました。

西日本に残る多くの城が石垣を駆使したものであるのに対し、山中城は様々な形式の土塁を駆使した城で北条流築城技法を現代に伝える貴重な城といえます。

山中城三の丸堀
三の丸堀

山中城田尻の池
田尻の池。山城では水源の確保が重要であり、貴重なため池の一つであったと考えられます。

山中城本丸跡
本丸跡。

山中城畝堀
畝堀。

山中城障子堀
障子堀。

山中城眺望
西の丸からの眺望。
三島市街から駿河湾まで一望できる。

山中城スタンプ
スタンプは駐車場内の売店に置いてあります。
売店は休みでも押すことができました。
掛川城は1497~1501年頃に今川義忠の命を受けた朝比奈泰煕が築城したのが始まりと伝えられています。但し、現在の位置に移ったのは1512年頃で、それまでは現在の位置より500mほど東にあったとされています。その後も朝比奈氏が掛川城主として城を預かりますが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれ朝比奈氏の主家である今川氏が力を失うと、1568年に掛川城は徳川勢の包囲を受けます。朝比奈泰朝は城を守り落城こそは免れますが、1569年には今川氏真の無事を条件に開城し城を去ります。

掛川城には城代として家康の重臣石川家成・康通親子が入り、家康が秀吉の命で関東に移封されるまで石川氏が城代を務めました。

1590年秀吉の重臣山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入り掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭に改修を行いました。

関ヶ原の戦いの後、一豊が土佐一国を与えられて高知城に移転すると、その後、掛川城には多くの譜代大名が入りましたが、1746年太田資俊(太田道灌の一族の流れ)が入り太田氏の居城として幕末を迎えます。

大手門
大手門

大手門番所
大手門番所

掛川城太鼓櫓
太鼓櫓

掛川城天守
天守は1854年の東海大地震により倒壊し、再建されないまま明治維新を迎えました。
現在の天守は平成6年に木造復元されたものです。

天守から見た二の丸御殿
天守から見た二の丸御殿。
現存する数少ない城郭御殿で、重要文化財に指定されています。
100名城スタンプは御殿の受付で出してもらえます。


御殿から見た掛川城天守
御殿から見た掛川城天守

掛川城スタンプ