原文のまま掲載します。
被災地の様子もよくわかると思いますのでご一読ください。
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震災から、まもなく7ヶ月…
そして、我が家では旅だって7年目を迎えたヤツがいる。
気持ちの整理には時間が解決してくれると言う人もいたが、あながち、嘘でもないかなぁと思う。
今日、我が家も、また一つの区切りがついた日でもある。よって私もこれで、一つの区切りをつけようと思う。
この7ヶ月の間、いろんなことを考えさせられた。
何も出来ない自分の弱さに苛立ちすら覚えた。そして、孤独すら感じられ、恐怖にも怯える日もあった。
どこにもぶつけられない気持ちを、いつも受け止めてくれた母には、感謝するばかりである。
頑張ろうと立ち上がったり、急に座りこんだりする状況で、私は、かつての生徒さんたちに幾度となく救われた。
『何もいらないよ…顔だけ見せてくれれば、それで嬉しい』
みんなが心配で、ただそれだけで…少しでも足しにしてもらえたら…と微力ながら、かき集めた物資を手に、かつての生徒さんのところを歩いた。
そんな時にかけられた言葉…
私なんかで、こんなに喜んでくれるなんて、ただただ嬉しくて、不思議なことにこっちが元気になっていった。
しかし、そんか中、会話にでてくるのは想像もしていなかった、避難所等の現状だった。
その当時、必要としている人に、物資が届かない…受け取れていない…という現実に、なんか違和感を感じていた。
どうしようもないのはわかっていたけど、出来るところでやってみようって動いてみた。
そんな私に、力を貸していただいたのが、私の友人のてっちゃんにクミさん、のりちゃん…
それから、ほんの顔馴染みくらいの付き合いなのに、いつも良くしてくれる、北上のモコさんの存在が大きかった。
震災後、5日目に家に戻れた私だったが、体調を崩した叔母の家のことをしなければいけなく、なんだか慌ただしかった。
4月…叔母を見送り、ちょっと気が抜けた私は、少々気持ちが不安定だった。
まぁ、いまだから『仕方ない』と言えるのかもしれない。
そんな中、物資配布のお知らせ。
私の地区でももらって良いとのことだったが、私の為ではなく、知人や、その家族、友人に向けていただいた。
これに関しては、賛否両論あったが…ただ、必要な人にもっていきたいってだけだったんだけど(__;)
何故、こう思ったかというと…
伺った避難所とその地区の出来事。
避難所閉鎖のため、避難所にあった物資を配布することになったんだけど、配布する地域が、閉鎖する避難所ではないところだったのだ。
お話を聞いた方がいうには憶測だが、そっちは地区が広いからかなぁ…だった。
また、個人宅に避難していた人らは、物資をもらいにいくと、突き刺さるような視線や自宅があるのにというひきめなどを感じて…という話もあった。
いずれにせよ、なんともやるせない話だった。
物資のこと…
今回、…っていうか、今まで高田はもとより気仙沼へ、自分の勤め先の様子を見に行く傍らで、自分がかき集めた物資やら、友人知人から応援いただいた物資を手に、気仙沼へ向かった。
特に、自分一人ではどうしようもなかったものに対しては、北上のモコさんを始めとする方々には大変お世話になったと思っている。
まずは、化粧品。
北上市内の化粧品会社様より提供いただいたトライアルセット。
気仙沼の階上地区の避難所に1箱置かせていただいた。
ちょうど置きに行った時、部活帰りの中学生に会ったんだけど、日に当たり真っ黒になった肌を見せながら、『おー(°0°)』っと第一声。
8月の初旬の暑い日に、熱くなった肌に少しでも潤ってくれたかなぁと…思います。
その避難所では、ほぼ同じ地区内に住んでいた方々なそうで、皆さん、ある程度は気兼ねなく過ごせていたそうです。
沢山、物資がくる中で化粧品関係はほとんどなかったみたいだったので、女性陣には好評でした。
そこでは、同避難所に避難していた母子家庭の友人に子供の靴など数足渡してきた。
友人のお父様が、未だ見つからず、けど、凄く強くて…行った私が元気をもらって帰ってきた。
『現実みたら、悲しくて凹むことばっかりだけど、振り返ってばっかりじゃいられないじゃないo(^-^)o子供もいるし、これから先のこと考えてたら、元気じゃなきゃやってられないでしょ?』
ごもっともだった。
お父様は、一度避難されたらしいのだが、避難したところに水が上がったらしく、そのままわからなくなったとか…
一日も早く、彼女の家族に安堵の日が訪れることを祈るばかりだ…