再訪した峠駅から下り普通列車に乗り、あっという間に米沢に着いた。
米沢ということで、ホームでは原寸大の牛のレプリカが出迎えてくれた。

米沢から、米坂(よねさか)線にて坂町、そして坂町から羽越本線~白新線経由で新潟、新潟から信越本線で長岡、長岡でB級グルメの「イタリアン」を食し、上越線で帰る行程である。

米坂線の列車が来るまで、まだかなり時間がある。
駅の二階にある売店で土産を買い、待合室のベンチに腰掛けながらテレビの高校野球を見る。
それでもなかなか時間が潰れないので、米坂線専用ホームの5番線で列車を待つことにした。
米沢駅で、一時間半ほど待たされただろうか…
ようやく、坂町行きの気動車がホームに入線してきた。

列車は2両編成で、そのうち米沢側の車両はJR東日本で主力の、キハ110系。
一方坂町側の車両は、E120系という編成だ。
キハ110系は八高線でいつでも乗れるが、キハE120系は新潟を拠点とした路線しか見られないらしい。
そのような理由で、迷わずキハE120系の車両に乗り込んだ。
列車は出発するとゆったり右にカーブを続けながら、南米沢駅、西米沢駅と停車する。
どちらも本家の米沢駅とは違って、単式ホーム1面1線の小さな駅である。
米沢から30分程で、第3セクターの山形鉄道フラワー長井線と接続する今泉駅に到着した。
この時は知らなかったが、この今泉駅は、宮脇俊三先生ファンにとっては聖地なのである。
昭和20年8月15日の終戦の日の正午、先生は父の宮脇長吉氏と一緒に、駅前広場にて玉音放送をお聞きになった。
日本中の時間が止まったこの瞬間に、列車はいつも通り運行されていたという旨が、先生のいくつかの作品に取り上げられている。
私も、いつかの8月15日の正午に、この今泉駅の駅前広場に居合わせてみたい。
今泉を過ぎてしばらくすると、車窓は山中の様相を呈してくる。
米坂線は全長約90キロ、全線単線非電化の地方交通線。
緑の山の中を走る路線は、あの「女子と鉄道」の著者でエッセイストの酒井順子嬢もファンだとか。
米坂線の駅の多くは単式ホーム1面1線の駅で、非常にローカルな雰囲気が感じ取られる。
雪国のローカル線ということで、私は白銀の世界を走る米坂線にも乗ってみたいと思った。

米沢から約2時間かけて、終点の坂町に着いた。
願わくはこのまま新潟まで運んで欲しい。
新潟~米沢を結ぶ快速「べにばな」という車両はあるらしいが、1日1往復しか出ていなく、今回の旅のスケジュールは、「べにばな」とは全くバッティングしなかった。
仕方なく坂町で白新線経由の新潟行きに乗り換える。
米坂線の車内はかなり混雑していたが、その乗客のほぼ全員が新潟を目指していたらしい。
新潟行きの車両には、米坂線から乗り継いできた大勢の乗客が乗り込み、やはり混雑した。
私は1両目の最前部に乗り込み、前面展望をかぶりついてみた。
坂町~新潟間の路線は街中を走り続け、あまり車窓の景色に面白味は感じられなかった。
坂町から1時間で新潟についた。
鉄道で新潟に訪れたのは初めてだが、駅や駅前巡りをする時間は無かった。
次は新潟で快速「くびき野」に乗り換える。
この「くびき野」は、485系の車両が使われているが、快速列車なので普通乗車券のみで乗車できる。
またこの「くびき野」は、去年の夏、初めての旅 で乗った思い出深い車両だ。
前回は新井から長岡まで乗車したが、今回は新潟から長岡に向かう。
14時丁度に新潟を出発した「くびき野」は、信越本線、羽越本線、磐越西線の3路線が乗り入れる新津駅を過ぎ、1時間程で長岡に着いた。
ここからは上越線に乗る。
次の水上行きまで1時間以上の待ち時間がある。
私が長岡で時間を潰す時に必ずすることは、駅ビルの中にあるファーストフード店「フレンド」の「イタリアン」を食することである。
「イタリアン」とは新潟のB級グルメで、肉なし焼きそばに、ミートソースをかけただけのような不思議な食べ物である。
改札内にある待合室で、イタリアンを頂く。
決して美味しいとは言えないのだが、次に長岡に来たときにまた食べたい、と思わせる本当に不思議な食べ物だ。

16時32分、水上行き上越線は出発した。
途中の小出駅にて、一番端のホームで出発を待っている、只見線の車両がいた。

小出駅付近から、雨が降り始めた。
越後湯沢辺りまでくると、雨は相当強く降っており、列車が止まらないか心配するほどであった。
最悪、新幹線を使う羽目になるのか…?
しかしそんな私の心配をよそに、列車は清水トンネルを抜け、湯檜曽ループを抜け(外は真っ暗でループは見えなかったが)、定刻通り水上についた。
ここまで来れば、あとは心配無いだろう。
胸を撫で下ろしながら、自宅まで定刻通り帰宅することができた。
余談だが今回の旅で、米沢から水上まで偶然、一人で鉄道の旅をする中学生の少年と一緒になった。
上越線で彼と話をする機会があり、
「次は土合に降りてみたいです」とか、
「今回は雨のせいで湯檜曽ループが見れなくて残念でした」とか、
目を輝かせながら語ってくれた。
彼が背負っていたリュックの中には、「峠の力餅」が詰め込まれていた。
私の人生の半分も生きていない彼から、何か、とても大事なことを教わったような気がした。
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