何があっても自分を否定しない という修行 | もっくん珈琲ブログ

もっくん珈琲ブログ

もっくん珈琲オーナー、タロット&占星術占い師、三児の母のもっくんの日常、店のお知らせ、考えていること。

自己肯定感って、「ある」ものじゃなく「作る」ものなんだな、ということを以前に書いたことがある。

『どうやったら自己肯定感が高くなりますか』
への1つの答えは

『何があっても自分を否定しない』
ことなのかなあと思う。


たとえば何かが上手くいかなかったとする

自己肯定感が低い人は、
『きっと何か私の人間性に問題があるんだ』
と自分を責める。で、自分を責める材料を探す。

でも、本当にやるべきことは


私の人間性を責めることではなく


『上手くいかない』というそれが、一体自分に何を見せているのか

ただ、本質を見ることなのかなって思う。


自己肯定感が低いから、つい自分を責めてしまうんです、動けないんです、っていうけど

それ、辛いことは辛いと思うんだけど、実はそれって、人生の課題からの逃亡を、カッコ良く(?)オブラートに包んでるだけだったりするんだよな。


「わたし」の人間性には何にも問題はないの。

でも、なにか意識の使い方とか
物事の進め方とかに

なにか、自分が望んでいないエラーパターンがあるらしい。


それだけ。


だから、やるべきことは、今までと違うパターンの行動をしてみる(意識の使い方をする)ってこと。

それは、すごく勇気のいることだと思うけど、怖くてもやれば、既存のパターンは壊れ、新しいパターンができる。

それをしないでわたしを責めても、実質上何も意味がないばかりか、本質から目をそらす癖になっちゃうのです。


うーんと、もっとわかりやすいたとえはないか……。


あ!

プログラムだ。


例えば、プログラミングして、思う結果が出ないとした時

プログラマーの人間性を責めるのがナンセンスなのは、わかりますよね。


思う結果が出ない理由は

→ なにかプログラムにミスがある(入力ががよくないとか、要素が欠けてるとか)

シンプルにそれだけ。


そうなると、やるべきことは、ミスってる箇所を探すだけですよね。ひたすら。で、修正してまた具合を見る。そうすることでしか望んだ出力(結果)が得られないんだもの。

それを投げて、自分自身(プログラマー)を責めても、何にもならないの。ミスをするようなダメな人間だからダメなんです…っていじけてても、ミスをなくすことにはつながらない。そこじゃないの。

クローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバー

私には何も問題がない。

だから、答えにたどり着くまで、人生を投げてはだめ。どうせその課題からは逃げられないのだから。その課題を乗り越えるために生きているのだから。


自己肯定感が低いから、つい自分を責めてしまう、動けない、のではなくて

つい自分を責めてしまう、動かないから、自己肯定感が低いって状態になってる。

そういう人にとっては「何があっても自分を否定しない」というのはある意味修行(笑)辛いし怖いし、誰かのせいにも出来ない。


でもね、そこが頑張りどころで、そうやって意識の向ける先を、自分攻撃から「自分のやること」に変えると、自己肯定感が不思議とついてくるのです。