
「なめんなよ!」「やってやるぜ」 ステージ乱入を制止…茨城・つくば市で式典が一時中断
つくいちの終盤あたりで、目の前の中央通りで、その一団が爆音をあげながらはしゃいでおりました。時間的には、あのあとに会場で暴れてタイーホな感じかな。(苦笑)
これはネットで拾った彼らの写真
暴走集団がいるのは今年に始まったことではなく、確か去年か、いつかのつくいちでも同じ光景を見たんですよ。(日程的に成人の日とかぶることが多いから)
決してみっともよいものではないけど、まあ安定の茨城の風物詩かな〜ぐらいに思ってました。でも、式典妨害となると、ちょっと度を越してますね。市長に椅子投げつけたらしいし(汗
で、いろいろ考えちゃいました。
↓まずは徒然ツイート!
もっくんカフェ@mokkun_cafe
荒れた成人式って、私らが成人になった頃からある話だから、そう思うと足掛け20年くらいの歴史になってしまってるんだよねえ。本人たちをDisるのは簡単なんだけど、こういうのを生み出す背景はなんなのかな。と考えちゃうな。
2017年01月08日 21:19
もっくんカフェ@mokkun_cafe
暴走系の非行の原動力は「自分を見て」の一言に集約できるような気がする。中央通りの珍走集団、パトカーが出て来たら嬉しそうだったもん。というわけで荒れる新成人の皆さんは、自分に本気で向き合ってくれる大人に飢えてるのかも。そう思うと、「なめんなよ!」「やってやるぜ」に哀愁を感じる。
2017年01月08日 21:59
もっくんカフェ@mokkun_cafe
小学校の先生をしてる友達が、荒れてる高学年クラスを受け持った時、親の影響の大きさを感じたという話をしてた。親がモラル低いとかそういう感じよりは、先生いつもすみませんね的なことをいいつつ、どこか他人事みたいで、あんまり本気で子供と向き合ってないなと感じたと。
2017年01月08日 22:03
妨害時の動画も見たけれど、まさに学級崩壊というか、なんかガタイだけでかい子供がチョロチョロ動き回ってるような感じでした。成人式だけど、大きな子供ね。
あそこで悪目立ちすることが、ある意味一種の自己実現、自己表現になってしまっているんだよね。
周りにバカとか恥ずかしいとか散々言われても、注目を浴びた意味では、本人たちは本望かも。誰の目にも留まらず、気にされないよりは、さみしくないもんね。
親とか周りの大人の向き合い方を引き合いに出したけれど、これは、個人的な問題というよりは、自己表現の方法のバリエーションを示してあげられてない私たちの社会が産み出した必然かな、という気がします。
反社会的な立場を取ることによって、逆に居場所を確保してるという矛盾。
このエネルギーを別のところに向けて、共同体感を味わうことができれば、こういうことにはならないのかな。
ある意味地域のお祭りなんかは、そういう役割だよね、と、たまたま遠方からつくいちに遊びに来た友人と話していました。



少なくとも、式典の警備を増やすとか、暴走/反社会的行為ダメゼッタイキャンペーンみたいな方法では、この手合いは絶対にいなくならないでしょう。むしろヤル気に油を注いでしまいます。
学校の卒業式みたいな一辺倒の式典をやるんではなく、むしろ、いっそのこと外でDQN祭りを並行してやるとかね(笑) 彼らの居場所を作る、発想の転換がいるでしょうね。



卒業式みたいと言ったけど、今って、社会全体がまるで学校みたいな雰囲気があるなあ、と色んなところで感じます。
彼らって、おそらく子供時代から学校社会のなかでは成功してこなかった方々で、社会から放置されてる感があるのかなーと思います。
だからこそ、反社会的行動によって社会に居場所をアピールするわけです。モラルハザードは、原因ではなく、目的(注目されること)を達成する手段でしかないの。
これは、学校の成績とか素行など、ものすごく一面的な価値観でひと、子供たちをジャッジする風潮全体が生み出す必然かなあと思います。
学校社会ではみ出しても、他に選択肢があるというのか、それが別段問題に感じずに子供たちが育って行けば、こういうコドモ大人は出現しないでしょう。



インナーチャイルドの観点なんかでも、きちっと大人に受け止めてもらえたと思えない人間って、大人になりきれないんですよね。
(もっとも、他者からの承認を諦めて、自分を自分で承認してあげることを選ぶと、誰でも即、コドモは卒業できるのですが)
アダルトチルドレンという言葉が流行って20年、そういえば、ちょうど荒れた成人式の出始めと重なります。
そんな大きな子供達をこれ以上増産しないためには、みんなが子供達、ひいては自分たちのありのままの姿を承認することが必要だし、また、そういう教育のあり方に変わって言ってほしいなあ、と願わずにはいられません。
そんなわけで、個々人のモラルとかそういうものよりは、こんなところにも自己肯定感とか承認とかの話が絡むなあ、と感じたのでした。