ここしばらく、龍ちゃんとふうちゃんの体調不良がドミノ倒しでそれぞれ1〜2週間弱あって、なんとなく落ち着かず、長い文章を書く気力が湧いて来ず

子供の体調不良は、自分のことより心配でつらいですね
でもおかげさまでようやく2人とも本調子が戻り、落ち着きました。


今日書きたいのは、やっぱり自己肯定に関する話。
「他人から見た自分」「他人が下す自分の評価」というものの中には、自分にとっての真実は1ミリもない。
客観的な評価こそが自分の真実だと思う人は多いと思うのですが、最近、こんなことをしみじみ考えています。
他人は、その人がみたいものを、自分に投影して色々言います。
これは好意的な評価も含めてです。
たとえば私を凄い人とか、いい人とか言ってくれる方がたまにいるのですが、私はただの私、もっくんなんだけど、その方が心の中で、私をそういうことにして見てくださっているということです。
それは有難いことだけど、ほぼその人の思い込みで、私にとっての真実ではないんですね。これは自己卑下じゃなく、ただ、真実は良くも悪くも『わたしはただのわたし』。そのわたしは、私しか知りません。
で、逆もそうで、面と向かって言われたことはあまりないけど、私を悪く思ったり言ったりする方がいる場合も、それはその人がそう思ったまでで、私には関係ないんですよね。
「悪いやつ」という役を誰かに投影してる。
目立つ人って色んな人の思いを投影されやすいんで、例えば芸能人が過度にいい人扱いされたり、バッシングを受けたりする。
でも真実は、その人しか知らないんだよね。

だから何かがいいたいかというと、
誰かに●●と思われるかも…
っていうものは、自分の人生にとって全く無意味だと思うんです。
人をコントロールしたがる人ほど、
「あいつは●●だから」
とか分かったようなことを言う。でも、ほんとは何も分かってないの。●●であったほうが、その人に都合が良いからそういうことを言うんですね。
そう言う人のジャッジを真実だと思ってしまうのは、コントロールされに行くようなものなの。
他人を神さまだと思ってはいけない。
自分の神さまは自分だけなのです。
親も上司も、下手すりゃパートナーだってそうです。

そう、関係ない。
どんなに自分のことを知っていそうでも
どんなに近しい人間でも
私のことは私しか知らない。
私が何者かを決めるのは私なのです。
ましてや、自分のことを直接知らん人が言うことなんて、輪にかけてほんとどうでもいいwww
いずれの場合も真実は1ミリもない。
真実たりうるとすれば、その評価を自分が受け入れ、真実とした場合のみです。それは知らず知らず、自分が決めています。
ま、大抵、誰かに悪く思われることを怯えてる場合って、自分自身の評価が低いのを、「誰か」という他人に投影してるだけなんですけどね

他人に自分の在り方、正しさを明け渡すことを『他人軸で生きる』という。
それは大抵苦しい生き方です。
だって、自分と感性の違うひとが、自分にとってはどうでもいいこと言ってきて、それを頑張って受け入れて、自分のかたちを歪めるわけだから。
少なくともこの文章が響く人は、その生き方はやめたほうがいいな(笑)
自分に軸を戻すって、初めは少し落ち着かないのですが、慣れると快適ですよ

他人から見た自分に真実は1ミリもない!
……ということにして、自分にとっての真実、自分にとっての幸せを考えて、それを実現させたらいいよなあ、と、思うのです。
これを受け入れると、他人とも、気持ちよく付き合えるようになります。媚びもせず、媚びられもせず、ただお互い響きあえるの。
そのひとが見える。
あなたが見える。
私の中の一部であるあなたが。
これが本当の『愛』かなあなんて、思うのです。