自己否定と、自己の存在への罪悪感 | もっくん珈琲ブログ

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サイコパスという話を出した数日後に、世間を震撼させるおぞましい事件が起こってしまいました。

(ブログの更新は昨日ですが、ログの元になったツイッターは、事件の少し前に書いていました)



犯人のことを色々ニュースで見るにつけ、この人物はそれこそ、元々の悪人(サイコパス)なのではないか、と思わせられるような、不可解なことがたくさん出てきます。

しかし、やはりそうではない、と色々考えて思いました。(もちろん、そうかと言って犯人のしたことは断じて許されることではなく、悲しく、怒りでいっぱいです)


犯人の動機の中でクローズアップされるのは、「優生思想」「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」という側面。

優生思想は、ヒットラーを始め、ナチスドイツの人道犯罪のベースとなった思想です。

『劣等な子孫の誕生を抑制し優秀な子孫を増やすことにより、単に一個人の健康ではなく一社会あるいは一民族全体の健康を計ろうとする』

この思想により、ホロコーストは正当化されました。これを聞くと、ナチスドイツ、なんて酷い!という感想がまず浮かびますが、残念ながら、この思想を基にした政策や法律は、他の国や、かつての日本にもありましたし、決してあっちの世界の話ではありません。

今回の犯人はこのホロコースト的な思想に傾倒し、弱い立場の人々に牙を向けました。


優生思想自体は、ヒットラーが生み出したものではなく、ヒットラーは熱烈な信奉者ということになります。

私の高校時代の世界史の恩師(戦争に行ったこともあるおじいちゃん先生)が、「ヒットラーは凄まじい劣等感にさいなまれた青年時代を過ごし、その怨念をもとにのし上がっていった。彼は人類が生んだ怪物だ」という趣旨のことをよく言っていて、当時は何を言っているのかよく分かりませんでしたが、すごく心に残っていました。

今はその意味がわかる気がします。


劣等感というのは、典型的な自己否定のひとつですが、これは自分という存在への罪悪感でもあります。

私がここにいていい理由。
それがない。
存在することに罪悪感がある。

元来は存在していることが先であり、「存在していい理由」「存在してはいけない理由」なんか双方ともそもそもないのですが、

自分の存在(ここにいること)に安心感が持てないと、理由を必死に探して、自分の安心感を作ろうとします。

劣等感は、他人から優れていることに自己価値、自己存在への安心感を見出そうとすることの、反作用です。

優生思想というのは、おそらく、そうやって自身の存在を内的に脅かされるあまり、外的な世界において自分自身が脅かす側に回って安心感を得るという、倒錯的な人間の防衛心から生まれたのではないかと思うのです。


今回の犯人に話を戻すと、どうやら、事件を起こした施設に勤め始めた当初(3年ほど前)から、障がい者の皆さんに対する見下した態度、というのが見受けられたようです。

私がきいて違和感があったのは、「勤め始めた当初は、気の毒に思って献身的に障がい者に接していたが、だんだんその思いが変わり殺意が芽生えた」という趣旨の説明です。

気の毒、というのは一方的で失礼だし、相手を対等の人間と見なしていない言葉のように思いました。その意味では、初めから彼の思想は変わっていない。

弱い立場の方に対する、「支援してあげる自分」というメシア的関係性の中に、自己価値を見出していたのかもしれません。

もっと言えば、「そうしなければならなかった」内的な動機があります。自己否定、劣等感を覆い隠すためです。


学生時代から脱法ハーブに手を出したり、刺青を入れたり、ネット右翼のような発言を繰り返したりなど、そういう過去の素行もあるようですが、これは原因とかその人物の本質を表すよりは、おそらく、その自己否定の苦しさから逃げるためにたどり着いた先だと思うのです。

いわゆる「ヘイト」と呼ばれるもののすべての行動動機は、自己否定の反動の攻撃性なのだと思います。

そして……

今回の事件もその流れの中で、起こされた。逮捕後に笑みを浮かべるなどの不可解な様子も、彼の中では、筋が通っているのでしょう。(自分が上である、優れている、故に存在を許される、という満足感。客観的には明らかに間違っており、自分勝手で社会的に看過できないものです)


彼をサイコパス、社会のエラーとして考えることは簡単ですが、この闇は個々の問題というよりは、ヒットラーと同じように、人間の社会が生み出した怪物、と捉えなければ、また第2第3のヘイト犯罪を生み出しかねないと思います。

生産性や他人への貢献、成功の度合いなどの客観的な基準で人生や人の価値をはかりがちな今日の社会の風潮、一人一人の価値観が、この【自己否定】という名の闇をつくりだす温床になっているのではないでしょうか。

彼の生い立ちは報道以上にはわかりませんが、オギャーと生まれた赤ん坊には、自己否定の要素など欠片もないのは、見たことがあれば一目瞭然だし、見たことがなくても容易に想像がつくことだと思います。

成長の過程のどこかで安心感を失い、自己への信頼をいつの間にか失うのです。

私たちは、その社会の参加者であるので、その加害者にも被害者にもなっている、と言えます。


私たちができることは何かと考えると、まずは自分、自分を否定せず、存在(自分のあり方)への罪悪感は幻想である、ということに気がつくことだと思います。そうすれば、他者にも同様に接することができます。

自分の存在が安心であることに気がつけば、他者への攻撃性は、その存在動機を失います。他者との協調は、自分への安心、そしてそれに伴う他人への信頼があって初めて成立する。

ヘイトクライム、戦争、差別。

見たくないそれらは、自分でない他者がやっている悪行、ではない。自分の心の闇を覗くとき、それらが他人事でないことを感じます。

星

ちょっと話は逸れてしまいますが、子育てをしていても、私は、この意味で大変な学びをしているなと日々感じています。

「子供に自己肯定感を持たせる」なんておこがましいことは思いません。だって子供は元々自己肯定の塊。生まれた瞬間は光100%です。その光を大切にしながら、お世話をさせてもらうだけです。

光を潰さないために必要なのは、親自身が同じように「ただ在る」こと、つまり自己を100%肯定して生きることだな、と思うんです。

教育方針はいろいろあれど、「〇〇しないとちゃんとした大人になれないから」とか「〇〇がないと駄目だから」という動機で、本人の意思を無視して何かをやらせることは、進学とかも含めて、全部結局害悪なんだと思いますゲロー

その思いが愛(?)から出ているにしても、前提がおかしい(=このままでは駄目である)と、「このままじゃ僕は、私は駄目だ」っていう根幹の思いの自己否定が子供には伝わってしまう…。

まあ、別に自己否定が行動動機になって何かを始めたりやり遂げたりするキッカケになる場合もあるんですけども、

そういう自己否定モードを子供に押し付けるときは、おそらく親自身がそのモードに入っているので、そんな我慢大会、コントみたいなことは、一刻も早く親子で辞めたらいいと思うんですよ。

この自己否定は、自分や親や先祖だけのものというよりは、集合無意識の傷、思い込みも入ってる。だからこそ、そこから「いち抜けた」する人がたくさん出てきたら、世の中が変わると思うんです。

長々語りましたが、その辺の自分/他者/社会の意識革命に、自分の志を感じる今日この頃なのでした。


最後に…

今回の事件の被害に遭われた方に心より哀悼の意を表し、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りします。

2度とこのようなことが起こらないよう

自分に何が出来るか、考えていきたいです。