私の母、享年42歳でした。

ガンが知らぬ間に転移しまくって

力尽きて亡くなったとの話でした。


私は当時専門学生でした。

正直、母が亡くなるなんて考えも

してなかったから

必ず元気になると信じてました。


実家から車で2時間はかかる

病院に運ばれた母。

当時、下宿してたアパートも近くて

診察と治療終えたら来るつもり

だったようです。


しかし、病状が思ったより悪く

病院に着くなり悪化。

緊急入院になりました。


当時、携帯電話なんて高価な物なんで

持てない人がほとんどなんで

私の方に連絡が中々つかず

父から学校に連絡あり、

病院へくるようにと。


慌てて行くと、母はニコニコしながら

ベッドに横たわり

酸素マスクに点滴のカテーテル。

思ったより元気そうと思ったら


担当医師から痛みがかなりあるはず

だから暫く安静にと。


痛み?どうして?

私はわからずにいました。

このとき、ガンに蝕まれていたのを

知らずに居ました。母にも告知なく。


ちょうど今くらいの夏に入院しました。

暑くもなく寒くもなく。

湿気だけはあるジメった日。


実兄も関西から急遽帰郷。

皮肉なことに仲の悪い、男家族が

何年かぶりに揃い母のそばで

ただ横たわる姿を見ていました。


闘病は思いの外、順調に見えました。

一時期起き上がり、

私と一緒に病室でご飯食べたり

笑って話したりと元気な事もあったので

学校終わりには買い物して

母に持っていくなんてのもありました。


顔には出さないけど、

かなり痛みがあったそうで

体調悪いときは横になっていても

辛かったらしいです。


病院内の食堂にあるラーメンが

かなりハマったらしく

よく私に食べたいと話すので

器を持って買いに行きました。


1杯400円。

醤油ベースのあっさりスープに中細麺。

チャーシュー、ネギ、ナルト、メンマ。

シンプルなラーメン。


病室に持って来ると

猫舌なくせにアツアツなラーメンを

食べようとする母。

それを笑って見てました。


全部はさすがに食べきれないようで

三分の一位食べたら私にくれました。

たべな。って。


私ががっついて食べる姿見て

よく食べるねぇと病床で笑ってました。


そんな日がつづき、

ラーメン食いたいと買ってきても

スープしか飲めなくなったり

話も段々できなくなり


遂には寝たきり。

私の手を握り病魔と闘う母がいました。



3ヶ月後、

母は遂に意識すらなくなりつつあり

病院から私に学校へ連絡を下さり

早退して母のもとに。


すぐベッドに寄り添うと手を握って。

母の手は父の漁業を手助けしてたので

ガッサガサの荒れ放題。

女性の手とは思えないくらいの手。

力強く握り返してくれます。


父も近くに宿を取り看病していたので

直ぐに駆けつけてきました。


兄は実家にいたので電話をして

病院にくるように言いました。


しばらくして

担当医師からICUに入れますと

告げられ、運ばれることに。


ギリギリまで私の手を離そうとは

しなかった母。


私が実家を出てずっと気がかりで

心配だと、常に電話で言っていた。

それが何も話せなくなって

弱りきった母が運ばれて行く。


どっかで大丈夫だと信じていた

私がバカみたいに思えました。



運ばれて、しばらくして

担当医師の計らいで

母が使っていた病室は

必ず私らが母をここに戻して

元気に帰すから家族の

皆さんで準備をお願いしますと

使わせて頂けることになり、父や兄が

交替で待機できる所になった。




1日に2回、20分だけ母の元に

行ける時間がある。

午前は兄と父。午後は私と父。

行くと全身カテーテルだらけにされ

心電図モニターが音を立てていた


私がただいまって声をかけると

必ずこのモニターが反応してました。

意識はなくとも私がいるのを

感じてくれた気がしました。


またあのラーメン、食べようなと

話すと少し笑ったように見えて

モニターも反応してました。


医師も痛みはかなりあると思うし

意識ないとはいえ、家族の声は必ず

耳に入ってますから

来たら話してあげて下さいと。


時間も限られている中で

たくさん話せば良かったかもしれない。

未だ後悔しっぱなしです。


そんな毎日があり1か月過ぎた頃、

母は旅立ちました。


母の亡骸を見て

よく頑張ったね、コレで痛みもないし

ウチへ帰ろう。と私は泣いてました。


車でいつもの道が3時間かかりました。

着くと近所の人や親戚など

沢山の人が母の帰りを

待ってくれてました。


通夜が営まれ、色んな人が

挨拶してくれますが

父や兄は憔悴しきってました。

私だけでも何とかしなきゃと考えて

二人をカバーしてました。


葬儀になると

参列者だけで数百人に上る方たちが

来てくださり

私の学校のクラス代表と

学校の事務長、担任が

わざわざ来てくれ、クラスでお金を

集めて香典まで持ってきてくださり。


賑やかやなーって

家族で話してたくらい



火葬するまえ、私は

亡き母にこう話しました。

「向こうで元気でいなよ、そのうち私も

あんたに会いに行く。

その時はまたいっぱい怒ってくれな。」


痛みなくゆっくり寝られてる。

幸せやったかな?私みたいな息子を

産んで嫌やったよな。

手を合わせ、母が天に上っていく煙に

想いを乗せてました。


それから30年余り。

母が亡くなり母方の親戚との

付き合いも殆ど無くなり、

父も認知症が始まり

兄は関西と実家の往復する日々。


私が今度は大腸腫瘍と

闘病する羽目になった。

今のところ、亀のような一歩ずつで

一進一退を繰り返してます。


私には看病する家族はいません。

だけど、母のを見ていて

好まれて死ぬのは損だなって思いました。

嫌われて死んだほうが良いし

悲しいけど私に携わらない方がと。


40代も過ぎ、母が亡くなった歳を過ぎ

50代になった。今。


何一つ、親孝行出来なかったけど

死んでもなお母に迷惑かける

ダメ息子の私。


闘病も母は最後まで

やりきったのかわからないけど

生きようとしてたのはあるから

私も頑張らないけど、

いい意味で前向いて病気に

立ち向かえる人になりたい。


死ぬのは怖いし、生きていても怖い。

だけど、いつか

娘に、頑張ったね。って

褒めてもらいたいかな。