自撮者たち “少女”① | アーバンギャルの卒業式

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2015年10月21日に発売された、松永天馬著作の「自撮者たち」をようやく読み始めたので考察と感想を記す。
詩はまだしも小説を考察するというのは少しナンセンスな気がするが、松永天馬らしく比喩表現が多いので仕方がない。

本作はSFマガジンと夜想に掲載するされた作品。
SFマガジンのものは“少女”“都市”“神”の3部に分かれている。

まず、“少女”から。
判りやすく詩の形式のものもあるが、ショートショートと短編もかなり詩的。

「スカート革命」:
シングル「スカート革命」と同名のショートショート。
歌詞を膨らませたような内容で、恋について書かれている。
恋とはスカートを短くすること、スカートの革命、スカート革命。
恋をする=行為をする(「恋をしに行く」より) 。恋をし、行為をすることが革命なのだろう。

『パンがなければ毒を食らえばいいじゃない』という一節はどうか?
本文の中から言えば毒は甘くて可愛い、でも『太って醜くなる』もの。
毒だと知りつつ敢えて食らう。それは行為のことを指すのだろうか?

「死んでれら、灰をかぶれ」:
文の端々に「コマーシャルソング」と重なる部分が見受けられる。短編。

「亡き王女のためのパヴァーヌ」。パヴァーヌとは行列舞踏のこと。行列というからには前の人物と同じような躍りを披露するのではないだろうか。母=亡き王女と同じ躍りを。

最初、この話は母親の残留思念を成仏させるために命を絶った少女の話だと思った。(死んだ人間の夢を廃棄処分する、『いきてる人間にとっては邪魔くさいので』)

しかし、その後の展開が難しい。
死後の話と思われるが、『ママとパパはベットを~』まで読むと、少女と母が混同する。孤独(=うさぎ)を殺し、その結果ピンクの灰を被った少女が産まれるということか。(『宝石の輝きは死者の国のすぐそばに~』)

うーん…。なんとなく理解できたように思うが、完全にではない。繋がりそうで繋がらない。

好きな部分は、『処女を有り難がる人は~、いずれ手をつけられることを前提とした有り難みなのだ。食べてもらえないショートケーキはただただ腐っていくだけだ。蝿のたかった女の子の肉片に処女の価値は付与されない』