誰も話していないし、誰も聴いていない








今、この肉体はこの記事をスマートフォンで指を動かして書いている。が、私は何も書いていない。「私が書いている」は観念だ。何が起こってきたかといえば、ビッグバンが起こり、地球が誕生し、人間が生まれ、ティールス・バーンと名付けられた肉体が産まれ、その肉体がスマートフォンを操作してこの記事を書いているというだけだ。そこに「私」という個人的行為者を差し挟む余地はない。ん…? 「『ティールス・バーン』は『私』だろう!」とおっしゃられる方もいるかもしれい。そして人類の多くはこの「付けられた名前」こそが自分であると錯覚している。が、この「自分がいる」「私がいる」という錯覚すらもビッグバンからの連鎖で起きたエネルギー現象の一つに過ぎないのだ。



前の記事で何を書いたかは覚えていないが、「エゴ(自分という錯覚)の創造」も「エゴの解体」も神(宇宙)によって行われる的なことを書いたはずだ。書いていなかったらごめんなさい。私たちはエゴなしで胎内から出てきて、しばらくするとエゴが形作られる。どうやらこれは周りから「◯◯くん」と名前で呼ばれ、周囲のものと自分とは別物であると刷り込まれることによって生まれるらしい。多くの個体は「◯◯くん」「自分」「私」という感覚を死ぬまで携えて生きるようプログラムされている。が、一部の特殊な個体は「あれ、もしかすると自分なんていないんじゃね? なんかブッダがそう言ってたし…」などとたわけたことを言い出して瞑想を始めたりする。これが「エゴの解体」だ。



が、この全てに「やっている私」というのはいない。そういう錯覚はあるのだが、その錯覚すら宇宙の、神の悪戯に過ぎないのだ。探求者(自分)は「本当の自分」を探したり、「自己の不在」を探したりするのだが、そもそもその探求者が存在しない。敢えて言うなら宇宙が、神が探求者であり、神が神を探しているに過ぎないのだ。この界隈でよく聞く言い方をすれば「神が神を思い出す」だろうか。つまるところ私たちの肉体は、神のこの長きにわたる広大な遊びに付き合わされるために創られたに過ぎないのだ。だから言っただろ…! 神はクソだって…!




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