沈黙と比喩




ゴータマ・ブッダが弟子のマハカーシャパに一輪の花を手渡してニッコリ微笑んだ。するとマハカーシャパは悟りを得た。



クソガキのアシュタヴァクラに対してその国の王様であるジャナクは頭を下げて教えを乞うた。アシュタヴァクラの話を一通り聴くとジャナクは悟りを得た。



こいつらは火薬だ。幸運である。そうでない乾いた石炭や濡れた石炭の人たちはどうしたらいいかといえば、必死にワークをするしかないのだ。瞑想しようとしたり、信頼しようとしたり、自分がいるかどうか必死に洞察しようとしたり、禅の公案を解こうとしたり…。



それでその肉体が悟りを得られなかったらどうなるか? ただやり残したエネルギーを携えて生まれ変わるだけだ。そしてこれは推測ではあるのだが、その動的な「何かをしようとするエネルギー」を基に肉体が形作られる。よく聞くのが「その動的エネルギーを成就するための肉体を探し次の子宮に入る」ということだが、私は「それはおかしくないか?」と思う。だって子宮があって肉体があるのに、そこに動的エネルギーが入り込まなかったらどうするんだ? 電池の入ってないロボットみたいになるのか…!? いやまあ正直こういう形而上学的なことはどうでもいいといえばどうでもいいのだが。



とにもかくにも、前回の記事で書いたようにこの全ては最初に宇宙が、神が仕込んだプログラムだ。だから「トラの口の中」から逃れることはできない。言い方を変えれば「宇宙の始まりからの流れの中」からは逃れられないのだ。なぜかといえば私たちは既にこの宇宙に存在してしまっている。それゆえこの流れから逃れることはできない。これがいわゆる「誰もがいずれは悟ることになっている」とか「阿弥陀仏の本願力」とかいうものなのかもしれない。



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阿弥陀仏の本願力とは、どのような罪悪深重の凡夫(煩悩に翻弄され、深い闇の中にある救いがたい人間)でも、救おうとしてやまないという大いなる慈悲の力のことを言います。
救うとは浄土に生まれさせようとする働きであり、浄土に生まれるとは、覚りを得るということ・・。
従ってこの本願力とは、覚りを得さしめ、本当の自分を思い起こさせる力のことです。
そして、本当の自分とはこの宇宙全体と不二一体・・というより、それそのものであり、一度たりともこの絶対存在から分かたれたことのない永遠なるものです。

即ち、今ここに存在する自分はまさに仏であり、久遠に生きどおしの尊い命・・
どんなに煩悩に囚われていようと、不安に苛まれていようと、怒りや悲しみに覆われていようと、阿弥陀仏の私たちを救おうとして止まない、サトリを得さしめんとして止まない本願力は、信心の有無に関わらず私たちに四六時中働きかけ続けています。

それを知ろうと知るまいと、それを有り難いと感じようと感じまいと、救われたいと思おうと思うまいと・・、そんなことは一切お構いなしに阿弥陀仏は働き続けています。

阿弥陀仏は言っているかもしれません・・
「お前が厭だと言っても救うぞ、そんな簡単にこの救いを受け取れる様な器量ではないことも充分承知!・・だが救うぞ!本来の自分自身に気付け!目覚めよ!」と。
人生の幸不幸、運不運、ありとあらゆる状況、悲しみ苦しみ喜び楽しみ等々を方便として、大いなる慈悲、大いなる智慧を働かせ続けています。

しかし、疑い深い自我(エゴ)は抵抗を続けることでしょう。
何せ私たちの自我は罪業深重!頑迷無知の達人であり、遠い遠い過去世、この自我が生まれてこのかた、この浮き草のような存在こそが正に“自分”なのだと夢の中で錯覚し続けている筋金入りです。

救われるのは厭だ、覚りなどというものはいらない・・!などと言いながら私たちは戦い続けるかも知れません、しかし最終的には負けてしまうでしょう!
この真実のパワー・・本願力に・・!!
それはいつのことになるのでしょう・・?
覚りを得、大安心を得るのはいつのことになるのでしょうか?
今日?明日?一年後?十年後?百年後?来世?来々世?
何れにしてもこの本願力にはかないません、これは勝ち目のない戦いです。

いくら頑迷でも、いくら尽きせぬ煩悩に満ちていても、いくら不幸でも、いくら無意識でも、いくら自分が救われるわけがないと頑強に思っていても・・

この宇宙最強の絶対的な救いの力に抵抗できるチカラは存在しません。
どうせなら早めに降参しましょう、この救いにあずかりましょう。
はやく楽になって浄土に住みましょう!覚りを貰って、清々しい気分で生きましょう・・!
永遠なる生命を、今ここに在る“あるがまま”をお祝いしましょう!
大いなる理解に与り、あるがままに、喜んで・・楽しんで・・!!
妙なる不可思議なる法悦を生きましょう!

煩悩があっても、怒り苦しみ、不幸不運があったとしても・・
私たちは只今、そっくりそのまま、阿弥陀仏の救いの内にいます。
どんなに遠くに逃げようと、この「本願力」の外側に出ることは不可能です。
この本願力を智ったなら、阿弥陀仏の呼び声が聞こえたなら・・
途方もない感謝に、歓喜に包まれるでしょう。
そして、阿弥陀仏の声が自分の口からこぼれるでしょう・・
なむあみだぶつ・・と・・

あみださんの慈悲・・今ここに降り注いでいます。
これは言い換えると・・
自分自身(仏性)の光、慈悲が降り注ぎ湧き出でているのです。
自らが自らを思い起こすのです!
自らが自らを浄土へ導くのです!
阿弥陀である自らが覚りを得さしむるのです!
この自我を放ってはおくはずがありません、放っておきようがないのです!
阿弥陀は私、私は阿弥陀・・!!

なむあみだぶつ なむあみだぶつ

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