ドイツのプロテスタント教会でも性被害者の大半が当時14歳未満で65%が少年
関連する報道が配信されていることに気づきましたので以下にリンクしておきましょう。
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北國新聞 2024/1/26 17:51(更新2024/1/26 17:56)
ドイツ教会、2000人超性虐待 46年以降、聖職者ら未成年に
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朝日新聞GLOBE+ 更新日: 公開日:
聖職者が子どもに性的虐待の発覚多数、浪費問題…ドイツでカトリック脱会者が相次ぐ
略
90年代、小学生だった筆者の弟は父に「(神父さんも参加する)教会が企画する泊りがけの旅行に行きたい」と頼んだことがあります。すると父は「神父さんというのは性的に欲求不満の人が多い。(弟のような)小さい男の子が泊りがけで神父とどこかに行くのは絶対にダメだ」と猛反対し、家族を驚かせたことがあります。
結局、弟は旅行に参加しませんでした。当時は「父親は過保護過ぎる」と思ったものですが、後にドイツの教会の様々なスキャンダルが明らかになってから、亡き父の判断を見直したものです。
略
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2の引用部については、表題に示すよう私の考えとは相反しますが、幼少期に洗礼を受けられたという筆者のお父さんの行動は内心の自由からの由来と親権に基づくもので問題はありません。また、その判断を「見直した」と評価する筆者も同様に精神の自由の範疇からして同様に問題はないでしょう。
しかし、国際的に御活躍されるルポライターにしては、いささかものごとをステレオタイプにとらえる向きを散見してしまいました。
例えば宗教にかかわらず子どもを引率する人物の職種、婚姻の有無、性的志向などで「危ない人物かもしれない」と察し個人や個家庭の範疇で距離を置く姿勢はいいとしても、それへの再評価は、そうした推察に基づく刷り込み的思惑自体が高い評価の対象となり、ひいてはLGTB等への差別を助長することにはならないでしょうか?
確かに後にドイツの教会の様々なスキャンダルが明らかになって聖職者による男児・少年への性的凌辱が少なからず明るみになったのかもしれませんが、そうした蛮行とは無縁の方々もいることを思えば、犯罪神父群の存在を奇貨として任意の全体群に対していわば十羽ひとからげの類推評価を高揚してしまう陥穽に筆者・読者そして編集者ともどもに気づくべきではないかと思ってしまいました。