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かくて車に乗て返る程に、叔父の佐佐木四郎左衛門尉信綱参りたり。
「廣綱と兄弟中悪く候し事、年頃知ろし召されて候。勢多伽童だに助け置かれ候はば、信綱髻切りて、如何にも罷り成り候はん」としければ、
是は奉公他に異なる者也、彼は敵なれば力及ばずとて、樋口富小路より召し返して、信綱に預ける。
やがて郎党金田七郎請け取って、六條河原にて切らんとす。
勢多伽、御所より給ひつる朽葉の直垂著替えて、車より下り、敷皮に移り、西に向て手を合せ、念佛百返計り申し、父の為に回向し、我が後生を祈念しつつ、首を伸べて討たれけり。
母、空しき骸(むくろ)に抱き付き絶入り々々呼(おめ)き叫ぶ有様、目もあてられず。
上下涙を流さぬは無りけり。
御室は「空き形を成り共、今一度見せよ」と仰せられける間、車にかき入りて帰り参る。是を御覧ぜられける御心の中、譬えん方も無りけり。
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いったんは助命が適いながら叔父に処刑推進を申し入れられ急転直下の身の上に、動転することもなく少年史にも残るまさに立派な死に際でした、
一方、対照的に愛息の死を目の当たりにした母の取り乱しは承久記著者が言うよう、目も当てられず譬えようもない事でした。
そして日蓮の言葉を借りると勢多伽を「眼のごとくあひ(愛)せさせ給いし第一の天童」として目の中に入れても痛くないほど日夜かわいがっていた御室(時の仁和寺門跡にして後鳥羽天皇第二皇子)の心情も如何ばかりでしたでしょうか。本来なら主敵の出家皇子は戦勝に向けた加持祈祷調伏の主犯として自分がひっ捕らえられるべきところ、愛する健気な少年がその運命をたどったことへのうしろめたさは必ずや感じていたところでしょう。